まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

卑近な悩みに効くテキストとして紹介したい『サーンキヤ・カーリカー』と『ヨーガ・スートラ』

この春からヨガクラスの付録として『サーンキヤ・カーリカー』と『ヨーガ・スートラ』をちょこっと紹介することにしました。


そこで、先日練習に参加いただいたかたにコンセプトをお話しました。

 

サーンキヤ・カーリカー』も『ヨーガ・スートラ』も

読み親しむほど、日常的なひっかかりに効くものです。

わたしが伝えたいのは、その手近さです。

 

初回のテーマは「噂話が生まれることについて」です。

4月はいろんな組織変更が行われた後なので。

 

こんなふうに、わたしの座学では

社会生活の中で起こる題材でお話ししますので、

どうぞリラックスして聞きにきてください。

 

 

その上で、『サーンキヤ・カーリカー』『ヨーガ・スートラ』を対比させて話しました。

以下を口頭で話しました。(以下は当日使うスライドの1ページ目です)

 

 

わたしのヨガクラスには教典の存在をはじめて知る人も、学んだことがある人も、みなさん自分のための時間として来てくださっています。

なので、だからこそ、友人とお茶をしているときに聞くような話にする方法を考えました。

 

 

  *   *   *

 

 

月に一回、スライドを使ってお話しする30分程度のプチ座学です。

前月に金座のヨガクラスに参加いただいた方へ、次回の座学の zoom IDをお送りします。スライドも事前に共有します。

話の前に呼吸法で気持ちをヨガのモードへ切り替えますので、ご都合の合うかたはログインして、練習のふろく講座として気軽に聞いていただけたらうれしいです。

いま全部わからなくても、personal journey のなかでわかってくる

インドでの授業のメモからの書き起こしです。

わたしはこの頃500時間のトレーニングを受けており、前半は200時間のトレーニングのメンバーと一緒でした。

今日の書き起こしは、その人たちがコースを修了していく頃の授業にあった内容です。「いま全部わからなくても、personal journey のなかでわかってくるので学び続けなさい」というお話がありました。

 

 

この日の授業で、以下のこともお話しされていました。

 

  • このことは、ヨーガ・スートラでは第121節~30節で言及されています
  • 23節は重要なスートラです
  • 神に献身するための精神の修正、身をまかせる態度について述べられています
  • ここを間違えると、横柄になったり、高圧的になったり、柔軟性のない過剰に厳格な堅物になったりします

 

 

さらに、こうもお話しされていました。

ヨーガ・スートラ自体に効力があるわけではありません

 

これはわたしの場合、かなり後になってわかってきたことでした。

ヨーガ・スートラは人生の格言集として、過去・現在の自分を鑑みて「こうありたい」と思う自己を見直す際に支えになるタイプの書物であることが、10年以上経ってからわかりました。

(この書き起こしの元になっているノートは11年前のものです)

 

 

 

この話に関連して「abhyasa-yoga」について言及された第129節を紹介してくれました。

この節には、日本語化する際に「abhyasa-yoga」の要素をどちらに寄せるかで訳のニュアンスや与える印象が割れます。

 

  • 繰り返し修練をする
  • 神への献身として修練をする

 

前者寄りの訳を添えます。

もしあなたが心を堅く私に集中することができないなら、常修のヨーガによって私に達することを望め。アルジュナよ。【上村勝彦 訳】

もし汝、その心をわれに集中することを能(あた)わざれば、常修ヨーガにより、われに到達することを望め、富野征服者よ。【辻直四郎 訳】

されど、心を確(しか)とわれに集中しえざるに、強運の士よ、そのとき、反復実修の修法(ヨーガ)にて、われを得んと願うべし。【鎧淳 訳】

 

 

わたしはこの授業のあと、202211月~20238月の間に、10年以上ぶりにじっくりゆっくり一節ずつヨーガ・スートラを復習しました。

この復習を経てあらためて当時の授業のノートを読み返してみると、先生がその日の話の組み立てに沿ってヨーガ・スートラに関連づくバガヴァッド・ギーターの節を紹介していたことがわかり、その日はもうすぐそのトレーニングを離れていく人に向けた応援の内容であったことも、あらためてわかりました。

 

 

わたしが受けた授業は英語でした。ノートに「personal journey」とあるところを機械翻訳にかけたら、内容と少し違うニュアンスになったので、タイトルは一部英語のままにしました。

personal journey」を丁寧に訳すと、「これから人生で起こることを乗り越えたり振り返ったりするなかで」というくらい、長い文章になります。

 

この授業を受けてから10年以上が過ぎ、その間にわたしにもさまざまな問題に直面し、その都度なんとかやってきました。そのあとであらためてヨーガ・スートラを読むと、「personal journey のなかでわかってくる」「ヨーガ・スートラ自体に効力があるわけではない」と話してくれた先生の意図が身にしみます。

肉体は魂の乗り物であり、城でもある

わたしはヨガクラスでいつも同じ喩えを使います。
ヨガに関する書物を英文で読んでいると、vehicleという表現が使われていて、それは肉体は魂の乗り物と捉えるから。この肉体から次の肉体に移る「乗り換え」がある、輪廻思想がベースになっています。

 


ヨガ・ニードラのガイドのときには、「身体をお城や寺院のように捉えます」と言います。
五感から入る情報で不要なものを受け取らないまま身体を横たえ、頭から胸へ、本殿のある場所へ認識を移します。

 


覚醒中の日常の瞬間は頭に意識が所在することが多いので、覚醒でもなく熟眠でもなく夢眠でもない意識の状態(くつろぎの状態)へ移行していくために、意識の所在地を移します。
瞑想のガイドでは、このようにお城や寺院のように捉えることを伝えます。
感覚器官の穴の数をお城の門に喩えたり、ヨーガの古典には定番の喩えがいくつもあります。

 

身体をコントロールし、その主である心をコントロールする。この段階を踏んでいく瞑想のガイドのときには、ヨーガの古典の比喩が欠かせません。
なので毎回同じことを言うことになります。
自分の存在が「動く城」であることを目指す。このありかたは、「アンガーマネージメント」よりも心の視界の幅・奥行きともに広いもので、わたしはこの考えがとても気に入っています。
人生は長いから。

 


どこにいてもくつろげることを可能にするために、心の居場所の最小単位である身体を整えたり、掃除(浄化)をします。
身体を鍛えるエクササイズは建築の作業に近いもので、ヨガの場合はさらに身体を心にとって住み心地の良い清潔な場所にしようという観点で換気をしたり塵や埃をとる、そういう要素が根本思想として潜んでいます。
なので、鼻うがいや腸内洗浄のようなクリヤと呼ばれる浄化・クレンジングのメニューもあります。