まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

サドゥーとストレス

インドのリシケシという場所には、たくさんのサドゥーと呼ばれる人がいます。
だいたいはオレンジ色の服を着て、アシュラム周辺やガンジス川の河川敷で生活をしています。
はじめは「こんな生活をする人が実際にいるなんて」とインドのそれらしさに刺激を受けるのだけど、年配のサドゥーにはそれまで思いっきりビジネスマンをこなしてきた人もいて、話してみるとみなさん経緯は色々。
シャルマ先生は、ある日のクラスのオープニング・トークで、こんなふうにサドゥーの話をしていました。

 今日は「ストレス」について話しましょう。
 文明が進むと、ストレスは増えるでしょうか。
 ここリシケシでも、ヨガの先生とそのアシスタントは1キロの距離に居るのに、携帯電話で話しています。
 いまのサドゥーは英語もインターネットも使います。
 サドゥーのストレスは増えているでしょうか。
 昔のサドゥーはストレスを防ぐ方法を探究していました。

 

生徒がシャラ(道場)の外で目にする現実を、なかったことにせずそのまま題材にする。
話の流れ的にのぞましくない状況を例外として扱うには無理があると感じるとき、「でもこういうの、けっこう見る光景だよね」と水を差したり「いいところばかりを見ようとしている」と批判するのではなく、「それはそれとして、わたしは現実を見ています」という淡々とした態度でのぞむ。
日本ではこの態度は嫌われやすいのですが、シャルマ先生はおもしろく、上手に話していた記憶があります。
先生について思い出すことが多いのは、このような態度です。

わたしは「なかったことにする」という行為にストレスを感じているのに、それすらも自分のなかで「なかったこと」にしようとしていた。

思わぬ流れでストレスについて理解を深めることになりました。

集中したアーサナの練習1回で、ギーターを1冊読んだような心身読了感

アーサナを何年も継続してからギーターを読むようになった人が、読書会で感官の制御に関する節を選ぶケースが増えてきました。
わたしはヨーガはその哲学に入る前にアーサナのクラスを経てから参加いただくのがよいと思っていて、アーサナのクラスはもちろんわたしのクラスでなくてもかまいません。
身体に意識を向けないままいきなりインドの哲学へ向かうと、たまに他人に向けてそれを振り回したい気分になってしまう人がいます。ほぼ無宗教に近い感じで生活している日本人とは違うのだという背景をすっ飛ばして、命令してくれる神に傾倒する人もいます。

わたしにはこれはオウム真理教に入信したエリートと近いメンタル設計に見えます。「優秀な自分を認めない世の中はおかしいと思っていた。やはり、他人が間違っていたんだ!」と、聖典もなぜかそんなふうに都合よく自分の過去を肯定するストーリーに変換して読み取ってしまう。
このマインドのまま読むと、同じ文章を読んでも他人を攻撃する材料に使うことになります。自己肯定を通り越して他者に説教をするようになると、やっかいです。"頼まれても望まれてもいないのに、教えたい" という気持ちは、第三者から見ると原理主義的な激性に見えます。そもそも、頼んでいないので。


インド人ではないわたしたちは、やはり土台作りとしてアーサナのクラスをじっくり丁寧にこなしてから読むほうがよいのだな、というのが近ごろのわたしの実感です。そうすることで、ファンデーションを塗らずにいきなりチークやアイシャドウを塗ったような、どうにもつっこめないメイクの仕上がりみたいな心の状況になることを防げるように思うのです。

 

 アーサナの練習をものすごくじっくり丁寧にやると、
 ギーターを一冊読んだのと同じくらいの感覚になります。

 

これは、読書会でなんとなくわたしが口にしていたことなのですが、本当にそうであるなぁとしみじみ思います。

仏教とヨーガの共通点

シャルマ先生はいつも「違い」よりも「共通点」で語ること心がけているようで、
仏教とヨーガの共通点についてもぽつりと話されたことがありました。

 

 いずれも belief ではなく、way of life 

 

たった一行なのに、響きます。

この話は「宗教って、何ですか? 主要と思う要素をあげてください」という投球によるディスカッションの後に話されたのですが、その時の講義の様子はもうひとつのブログに書きました。