まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 3章8節

この3章8節は神戸と東京でビンゴしました。
それぞれわりと長くヨガを練習しているかたですが、こんな理由をお話してくれました。
神戸参加のかたは上村勝彦訳、東京参加のかたは スワミ・ヴィラジェシュワラ著/岡太直 訳 を読んでのコメントです。

 

  • ここ数年意識していることが書かれていました。
    ヨガと出会って、行為がわーっと続いて…。アサナを練習したり、本を読んだり、講義を受けたりして、「動」ばかりが続きました。
    でも途中から、ものすごく深く考えるようになってしまって…。「考え」が常にあって、「行為」があって。
    それがここ近年、釣り合わなくなってきました。「この区別はやめよう」と思い、行為に専念していくと、また新しい考えが入ってくるようになりました。
    それによって今はいい感じのリズムがつくれていて、「行為が大切だなぁ」と思います。(神戸に参加・Mさん)
  • 普段仕事をする時、特に単純労働・肉体労働だけで知的作業の伴わないような時に「これは稼げる筋トレ」と自分に言い聞かせています。
    クレームとか何かトラブルのあった時、すごく嫌な気持ちになるのですが
    「これは心の筋トレ。これで私の心は益々鍛えらえていく!」と、気合を入れます。さらにこのような自分をもう一人の自分が「けなげな奴だな~」といたわっています。(東京に参加・Oさん)

 

この節はなにかに取り組むとき、その「対象」と続いていく関係のなかで、自己を思うと沁みる節です。
対象との関係がある以上は身体があるわけで、その身体に行為させたりさせなかったりするものの存在・対象に優劣をつけようとする存在が大きくなったり小さくなったりする。Mさんが練習の過程を振り返っていくときのコメントは読書会の録音から書き起こしていますが、ひとことずつ、つぶやくように刻まれる回想の言葉に、わたしも深く細かく何度もうなずきました。

 

この3章8節は、訳のニュアンスにそんなに割れるところが生じる節ではありません。上村勝彦訳、田中嫺玉訳の訳文と、Oさんが読まれていたスワミ・ヴィラジェシュワラ著・岡太直訳の訳文を読んでみましょう。

あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。
あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう。
上村勝彦 訳

 

定められた義務を仕遂げる方が
仕事をしないより はるかに善い
働かなければ 自分の肉体を
維持することさえできないだろう
田中嫺玉 訳

 

汝に定められた義務を果たせ。というのも行為は無為よりも優れているからである。
もしも汝が何も行わないならば、身体を維持することすらできぬはずである。
スワミ・ヴィラジェシュワラ著/岡太直 訳

上記の訳は一節で完結していますが、日本ヴェーダーンタ協会版と辻直四郎訳は、前後の節とあわせて理由(輪廻する)⇒ 結論(だから定められた行為をやれ)という流れになっていて、語り口調に特徴をもたせた訳になっています。

故に、君は定められた義務を成し遂げるがよい。仕事をせぬよりは、する方がはるかに善いのだ。第一、人は働かなければ自分の肉体を維持することさえできぬであろうが。(3章8節)


仕事を至高者への供物とせねば、その仕事が人を物質界(このよ)に縛りつけてしまう。故に、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 仕事の成果を至高者に捧げ、ただひたすらに活動するがいい。(3章9節)
日本ヴェーダーンタ協会版

 「できぬであろうが」と鼓舞します。この鼓舞のトーンそのものから行為のありかたの重要な部分がありありと伝わってきます。

 

 汝は義務的行作(niyatam karma)をなせ。何となれば、行作は無作(akarman)より勝れたればなり。

汝無作たらんか、その肉体の維持すら成就せざるべし。(3章8節)


この世は祭祀のための行為を除く行作の繋縛(けいばく)を受く。
執着を離れて、このための行作(祭祀)をなせ、クンティー夫人の子よ。(3章9節)
辻直四郎 訳

「義務的行作」という言葉を造語のようにすることで、ひとつの行為のありかたが伝わる。3章9節も、「もうこれは祭祀なのだと思って "いいからやれ"」というメッセージがシンプルに訳されています。

 

この節の「鼓舞のしかた」はとても強いトーンで、考えてばかりで行為をしない「無為への執着」に「見てるぞ」というクリシュナの容赦のなさが、2章47節と少し似ています。

3章8節のほうが、行為している自己に酔いたいときには心地よく響いてしまうので、悪用されやすそうです。

ギーターの暗唱のようなことが起きた

バガヴァッド・ギーターを読む会の関西開催で、こんなことがありました。

参加者の感想のなかに、クリシュナがまるで「ジャイアン・リサイタルのようだ」「なんでこんなにパーティー・ピーポーっぽいのか」という率直なコメントがあり、わたしもそんなことを思っていたな…と回想しました。

そのことをなんとなく口にしたら、暗唱みたいになりました。

 

わたし:ジャイアンか!」というツッコミを入れたくなる感じ、すごくよくわかります。わたしははじめに読んだとき、この神様はアントニオ猪木みたいだなぁ… と思いました。

参加者:ああああああ~

わたし:元気があれば…

参加者:なんでもできる

わたし:迷わず行けよ…

参加者:行けばわかるさ

 

このときは「今日はたまたまプロレスが好きの人が集まっていたのだろうか」と思ったのですが、このフレーズはプロレスに関係なくすぐ出てくる人が多いようです。

よく考えたらクリシュナの言葉は「戦いのための鼓舞」だから、アントニオ猪木さんの言葉とも重なるわけなんですよね。

それにしても、この暗唱コール&レスポンスっぷりは、まるでインド人にとってのギーターのよう。日本語の詩の力(この場合はポエムでなくリリック)に驚きました。

ビンゴでギーター 2章47節

(※2016年に東京で選定者が増えたため加筆しアップデートしました)

この2章47節は京都で1名、神戸で2名、東京で6名の選定者があったほか、共感する人の多い節です。選んだきっかけとして、こんな理由をお話してくれました。

  • いま非正規雇用で働いています。去年ある時期、ボリューム的内容的にも「わたしじゃないな」という仕事を引き受ける状況だったのですが、そのときに「やれっていわれればやりますけど」というエンジンのかけかたでやって、でも「なに?」と思う気持ちや、安く使われている気持ち、踊らされている気持ちがありました。この節を読んで、お金をもらうとか褒めてもうとか、そういうことを求めないということを考えました。(東京・Nさん)
  • いま治療に専念していて、精神的にきつく、毎回つい結果に執着してしまうので。(京都・Hさん)
  • 子供のころには「親の期待に応える=結果」、長く営業職についていた頃は「成績を上げる=結果」という生活を長くしていて、しんどかった。ヨガを始めたきっかけもそこにあって、「結果を求めなくていい、自分そのものでいい」という感覚が心地よくて今に至っている。長い目で見て、いままで自分が積み上げてきたこともいまの自分になっていると思う。でもそれにもまた執着してはいけない。はじめてギーターを読んだときに「執着するな」というメッセージがとにかく心に残った。(神戸・Mさん)
  • ふだん行動したり生きている間に、絶対に結果を気にしながらどんな行為もやっていて、行為自体に意味を見出していることがほとんどないなぁと思って。ついつい結果が欲しくなる。【⇒損すると、悔しいでしょ(うちこ)】⇒そう! 損をしないように生きていることが多い。(東京・Kさん)
  • 2年前にヨガの勉強で先生からレポートの宿題を出されたときのテーマが「無執着で仕事をおこなう」でした。そのときに先生からいただいたコメントは「『無執着』は執着しないことですが、無執着にも執着しないことも含めます」という深いものでした。(神戸・Mさん / 京都より参加)
  • これまでわりと好きなことをしてきたなか、今はあまり好きではないことも仕事の中にあります。以前はこの状況について、過去と比べてどうなのだろうと思っていたのですが、あるときから「これも修行だ」と捉えられるようになり、そのときの感覚とこの節が似ているので選びました。(東京・Sさん)
  • 夫がパソコンの操作に困りヘルプを頼まれたときに、いつもエラそうな態度の夫に対して、落ち着いて対応できるようになっていた。いままでは「こうしたら?」と言うと「それはもうやった」と却下するような態度なので、今回は「こんな検索ワードで調べたら情報が出てくるから、やってみたら?」と提案した。穏やかにことが進み、しばらくしたら「ありがとう」と言われる結果になった。あとで振り返ると、いままでであれば「どうせ却下されるから」と思ってこちらも応戦するような態度になりがちだった。でもこのときは、「提案はしてみる」という感じで、「無為に執着してはならない」ということができていたのかもしれない。このできごとと、ギーターのこの節が重なったので選びました。(東京・Yさん)
  • この節を読んだ時、映画「シン・ゴジラ」で観たシーンを思い出しました。自衛隊ゴジラに全ての弾を撃ち尽くしたものの失敗、作戦本部は壊滅。それにも関わらず作戦本部長が「気落ちは不要、攻撃だけが華じゃない。俺たちには逃げ遅れた人を避難させるという重要な役割がある。住民の避難を急げ!」と言う場面。
    許されざる失敗のあとでしたが、作戦立案者(クリシュナ)の職務を精一杯遂行した上での結果なので失敗に執着せず、次にやるべき職務を遂行する。ギーターは初めて読みましたが何ともフィットするシーンでした。(東京・Iさん)
  • ギーターを初めて読みました。ちょうどそのまえに夜と霧」という本を読んだばかりだったので、「こういう宗教の解釈があるのか」と感じ、その本(夜と霧)のことを思い出しました。その本のなかに極限の状況においても自分を卑しくさせないまともな人と、そうでない人しかいないというようなことが書いてあり、その「まとも」の定義のようなものと似ていました。その瞬間瞬間を生きる力のようなものです。
    「あなたの職務は行為そのものである。決してその結果にない。」のところが、その本を読んで今こうありたいと思っている自分にピタリときました。(東京・Uさん)

 

京都でこの節を選んだHさんの理由を聞いて激しくうなづいている人がいたので、理由を聞いてみました。こんなことを思い出したそうです。

  • 先月、仕事で後ろから横からバンバン弾が飛んできて、泣きそうになりながらやっていた。そのときのことを思い出しました。(京都・Mさん)

 

 

さまざまな局面に刺さってくるこの節を、いろいろな訳で読んでみましょう。 

あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。

上村勝彦 訳

結果を求めることありきで行動を考えるな、と。

この訳は、最後の「無為に執着してはならぬ」が少しいまの日本語感覚だとわかりにくいかもしれません。

ここは「akarmani」⇒「a(not)」+「karma(行為)」です。わたしははじめ、「無為」という語には「無為自然」のよいイメージをもっていましたので、「自然に起こる執着に身を任せてはならぬ」という誤読をしました。

 

別の訳も見てみましょう。

君には 定められた義務を行なう権利はあるが

行為の結果については どうする権利もない

自分が行為の起因で 自分が行為するとは考えるな

だがまた怠惰におちいってもいけない

田中嫺玉 訳

 最後の部分が「怠惰におちいってもいけない」となると、「結果が自分のものではないからといって、ふてくされちゃぁいけないよ」というタマス性に対する注意が読み取りやすくなります。「行為の結果については どうする権利もない」というのも現代的な感覚で入ってきやすいです。

 

おまえの関心は行為のみにあり、決して行為の結果にあってはならない。行為の結果を、おまえの動機としてはいけない。また、おまえは無行為に執着してはいけない。(宇野惇 訳

「関心は行為のみ。結果にあってはならない。」と、かなり強いメッセージです。この節に励ましを感じる人には、この力強さがたまりませんね。 

 

さて。英文だと、どうなるでしょうか。

みなさん、結果を英語で言うと、なんですか? という質問をすると、ほとんどの人が「result」と答えます。「結果」にもさまざまなケースがあると思うのですが、ここに多様性を感じさせるふくらみのなさは、日本語の感覚、日本語的思考の特徴です。

英文の訳を見てみましょう。

You have a right to perform your prescribed duty, but you are not entitled to the fruits of action. Never consider yourself the cause of the results of your activities, and never be attached to not doing your duty.

http://vedabase.net/bg/

成果への期待は「fruits」、行為の結果は「result」という微妙な違いがあります。

原因と結果(因果論)はインド哲学の中でよく出てくる概念ですが、英語で説明を読んでいると、結果が「result」ではなく「effect」と訳されているものを見かけます。

わたしはこの「effect」という訳にハッとしたことがあります。

日本語の感覚では「結果」というと、ゴールした後のイメージしかなく、まだゴールしていない「影響を受ける」段階は結果のなかに含まれない感覚があります。

 

成果の定義を明言せず「よい影響を与えたい」という大義名分や「参加することに意義がある」という動機づけすらも執着であると、そこまで言われているような気がします。「参加することに意義があろうがなかろうが、参加する」「求められていようがいまいが、やる」。バガヴァッド・ギーターのなかには、要約すると「いいからやれ」のひと言に尽きるものが多いですが、この節はかなり究極的な言い回しにも関わらず、励まされる人が多い。圧倒的な行動力を導き出してくれる節です。