まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

暗示になるから言わない

これは座学ではなくヨガクラスであったこと。
直近数回の練習の動きで少し気になる左右差が見えた人に

 

 「右の足首、ケガかなんかしてます?」

 

とたずねたら、とくにケガではなかったようなのですが「前から気づいていたのですか」と言われました。
気になっていたのは1ヶ月前くらいからで、当然それ以前の動きの記憶と照合しています。アーサナのクラスをナビゲートをしている人はみんなそうだと思うのですが、そんなにむずかしいことをするわけではない動きのときは、いろいろ気づいても静観することが多いものです。
これはわたしの考え方なのですが、人には以下のような心の状態に個人差があると思っており

 

  • 自分にOKを出す早さ
  • 自分にNGを出す早さ
  • 自分へのOKを他人から得ようとする度合い
  • 自分へのNGを他人から得ようとする度合い


この状態を見極めないと目に見えないことの確認は口に出せないので、ケガ以外の可能性では、結局ほとんどリアルタイムでこちらから質問をすることはありません。
動きながらのコミュニケーションでは、呼吸のしずらくなる方向へ向かっていたり、膝に過度の負担がかかりそうだったり、顔に力が入るほどであったり、角度がやばいときだけサジェストをする。そのくらいです。
「ここ、こうすればもっといける!」なんて提案こともありますが、そういうときはそういう前提のチャレンジクラスで、いけると予想して口にしています。

 


人の心の状態にはいろいろありますが、とくに注意すべき状態というのがあって

 

 自分へのNGを他人から得たい

 

これは不思議な感情にも見えるかもしれませんが、「他人から得たい」は占いビジネスがある限りなくならない感情というか、多くの人にある感情です。

 

 NGを得たい

 

というのが、とても大きな問題です。

 

 だから、できないんだ

 

と、怠惰に陥りたい気持ちが含まれていることが少なくないからです。
さらに進んで

 

 他人に代弁させたい

 

となると、これはエゴに貪りがブレンドされた意思。これに乗ってしまうと、相手に「盗み」をさせたことになってしまいます。
何かを誰かに問うときに「○○ですか?」ではなく「○○ですよね?」という問いの文章を無意識に選んでいる人は、盗みの心を働かせている瞬間でもあるので、盗まれる側がセキュリティを固めておくことで悲しい事態を防ぐことができます。

 

 暗示が欲しい

 

誰だって間違いのない方向を他者が決めてくれるなら、とてもラクです。でもそれができないから、自分で決められるように修練をしています。
いまの日本の社会はインドと少し違って、仕事や結婚などの人生のさまざまな決定を自分で負う部分が多いので、「できる」「できない」と「する」「しない」の境界で自己を見失わないようにし続けることがむずかしいと感じます。
そんな思いもあって、自分の発する言葉が暗示にならないように気をつけています。
バガヴァッド・ギーターのアルジュナは、自分の迷いがなくなるように言い切ってくれ、言い切ってくれとクリシュナに何度もせがみます。もう、きりがないほどに。
読んでいると、なかなかよい戒めになります。

 

ill-willの感情が論外視されがちである、という認識

夏目漱石の小説を題材に、インド思想の心理学視点で「心」を掘り下げていく時間でお話したこと。ここでは過去にインド人のヨガの先生から過去に聞いた話を含めて書き起こします。
この話をしたのは、「坊つちゃん」という小説に登場する主人公のさまざまな「怒り」を分解するテーマで話をする冒頭でのアイス・ブレイク演習。日本語で共有される「怒り」の種類にはない、別の概念の話をしました。
サンスクリット語で「怒り」を示す語では、バガヴァッド・ギーターにもよく出てくる「クローダ」などがありますが、それ以外の語をテキストで紹介しながら話しました。

これはいつもエクササイズのようにやるのですが、ほかの言語の世界に触れるまえに、わたしたちの日常にある怒りの種類の単語をまず引っ張りだします。


このように。

 
これらはまだ、なんとかなりそうな怒り。
でも怒りには、なんとかならなくなってしまいそうな領域に踏み込んだものもあります。

日本では、凶悪犯罪が起こると「責任能力」の有無を確認する、そういう流れをニュースで見ます。
これは、日本に長年住むインド人のヨガ講師のかたがすごく不思議がっていること。いわれてみてたしかにそう思ったのですが、日本では「そういう感情」を「異常」という前提にして世の中が回っているところがあります。
日本語は心のはたらきかたをあらわす動詞がとても少ないので、知らない感情が異常と認定されやすいところがある。わたしはサンスクリット語にあまりにも多くの語があることを知ってから、そんなふうに考えるようになりました。
たとえば怒りでも

 

  • ヴィアーパーパーダナ(vyapapadana)=犯意(殺意に到る級)
  • イラス(iras)=犯意、悪意(上のよりも少しマイルド)
  • ダウルジャンニャ(daurjanya)=悪行をする意向(さらにマイルド)


というふうに、犯罪に結びつく過程に近い怒りを示す語があって、英語でこれは「ill-will」と訳されます。英語のほうがわかりやすい感じがします。
この「ill-will」のニュアンスを含んだ恨みの感情に到るまでの怒りのグラデーションは、日本では裁判所でしか分解されないというか、あまり語られることがありません。ミステリー小説の中にはたくさんあります。


以下のリストアップからもわかるのですが(同じ写真をもう一度)

 

日本語の怒りの単語は、平穏・友好的な関係を乱すときに発生する細かな怒りの表現バリエーションが豊富。わりと粘度の低い、こじれすぎるまえに激するものが多い。
他国の言葉と比較していくと、自分たちが普段どんな価値観で人間の感情の善悪を定義しているかが見えてくることがあるのですが、日本は宗教観が薄いためか「悪魔的」な恨みの感情については、少し理解が遅れているところがあるように思います。

「光り輝く」にもいろいろありまして

これは、たまに背景の思想も含めながら説明をする拡大版・ハタヨーガのクラスで話したこと。
その内容に、解説を加えて書きます。その日は呼吸法のカパーラ・バーティをやりました。
この「バーティ」には光り輝くという意味がありますが、あまり端的に話してしまうと、強い全能感を渇望した人にとっては食いつきポイントになりやすい。わたしはヨガのこういう側面をリスクとして捉えているので、それなりに説明を加えられる流れのときだけ、クラスの構成に入れています。

 

わりとゆったり説明するクラスでは、「○○にも、いろいろありまして」というトーンでお話しています。
今日はそのなかでも「光る」「輝く」のこと。

日本語でも、明るいとか、輝いているとか、パッと華やぐとか、ぎらついているとか、聡明だとか、そういうふうに人の状態を表現することがありますが、それと似ています。
たとえば美容に関する表現では「内面から輝く」「内側から輝く」のような表現をよく目にします。自己を知り、知性も兼ね備えた輝き。この場合、ヨーガ周辺の教典によく出てくる語では「プラカーシャ(prakasha)」が似ています。
カパーラ・バーティという、横隔膜を使った呼吸法の名前になっているバーティも「輝く」なのですが、この場合はカパーラが頭蓋骨をさしているので、語の羅列では頭蓋骨が輝くという訳になります。練習を通じて感じるものとしては、頭に酸素が回って頭がはたらきだして、すっきりと頭をはたらかせるエンジンがかかる。鏡を拭いて曇りが取れて光っていく感じと似ています。

 

このほかに、シヴァ信仰色の強いハタ・ヨーガなど神話学的な要素の絡むものには、「ヴィラサナ(vilasana)」という語が出てきたりします。これもまた輝きです。
これは神の輝きなので、もうまぶしいほど。フラッシュのようです。ぎらっぎらの金ぴかの、豊臣秀吉が求めた力に似た、異様な活動力を含んだああいうものを想起させます。

 
このように、微妙にニュアンスが違うのと、やはりインドはインドの神話学があるので、そことも連動している。日本人が日本人に伝えるヨーガのクラスでは、「"光り輝く" にも、いろいろありまして」という話のできる場でないと、わたしはうまく話すことができなません。

 

 パッとしないということはない。

 でも、他者の目を刺激するほどぎらついてもいない。

 

こういう、安定したほんのりとした輝きが絶えない状態を、わたしは現実的な着地点として、理想の状態ととらえています。
自ら輝かず、ただひたすらに「照らしてくれ!」という印象を周囲に与えてしまう「パッとしないのに、ぎらついている状態」を脱するために、まずは自分の頭の中の曇りをとっていく。そこから、内面からの輝きへ進んでいく。

光り輝くというのは、すごく時間のかかることだと思っています。