これは座学ではなくヨガクラスであったこと。
直近数回の練習の動きで少し気になる左右差が見えた人に
「右の足首、ケガかなんかしてます?」
とたずねたら、とくにケガではなかったようなのですが「前から気づいていたのですか」と言われました。
気になっていたのは1ヶ月前くらいからで、当然それ以前の動きの記憶と照合しています。アーサナのクラスをナビゲートをしている人はみんなそうだと思うのですが、そんなにむずかしいことをするわけではない動きのときは、いろいろ気づいても静観することが多いものです。
これはわたしの考え方なのですが、人には以下のような心の状態に個人差があると思っており
- 自分にOKを出す早さ
- 自分にNGを出す早さ
- 自分へのOKを他人から得ようとする度合い
- 自分へのNGを他人から得ようとする度合い
この状態を見極めないと目に見えないことの確認は口に出せないので、ケガ以外の可能性では、結局ほとんどリアルタイムでこちらから質問をすることはありません。
動きながらのコミュニケーションでは、呼吸のしずらくなる方向へ向かっていたり、膝に過度の負担がかかりそうだったり、顔に力が入るほどであったり、角度がやばいときだけサジェストをする。そのくらいです。
「ここ、こうすればもっといける!」なんて提案こともありますが、そういうときはそういう前提のチャレンジクラスで、いけると予想して口にしています。
人の心の状態にはいろいろありますが、とくに注意すべき状態というのがあって
自分へのNGを他人から得たい
これは不思議な感情にも見えるかもしれませんが、「他人から得たい」は占いビジネスがある限りなくならない感情というか、多くの人にある感情です。
NGを得たい
というのが、とても大きな問題です。
だから、できないんだ
と、怠惰に陥りたい気持ちが含まれていることが少なくないからです。
さらに進んで
他人に代弁させたい
となると、これはエゴに貪りがブレンドされた意思。これに乗ってしまうと、相手に「盗み」をさせたことになってしまいます。
何かを誰かに問うときに「○○ですか?」ではなく「○○ですよね?」という問いの文章を無意識に選んでいる人は、盗みの心を働かせている瞬間でもあるので、盗まれる側がセキュリティを固めておくことで悲しい事態を防ぐことができます。
暗示が欲しい
誰だって間違いのない方向を他者が決めてくれるなら、とてもラクです。でもそれができないから、自分で決められるように修練をしています。
いまの日本の社会はインドと少し違って、仕事や結婚などの人生のさまざまな決定を自分で負う部分が多いので、「できる」「できない」と「する」「しない」の境界で自己を見失わないようにし続けることがむずかしいと感じます。
そんな思いもあって、自分の発する言葉が暗示にならないように気をつけています。
バガヴァッド・ギーターのアルジュナは、自分の迷いがなくなるように言い切ってくれ、言い切ってくれとクリシュナに何度もせがみます。もう、きりがないほどに。
読んでいると、なかなかよい戒めになります。