まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

「煮沸消毒」と「こすり洗い」

この理解・解釈は自分の中にずっとあるもので、身体を動かすヨガクラスでたまに話していることです。
わたしはヨガ・インストラクターやヨガ講師と言われる立場でクラスをリードしますが、練習に来る人の宗教観はさまざま。なので、日常に落とし込んだ説明をすることが多いです。
ヨーガは基本的に輪廻思想がベースにあります。輪廻思想がベースにあることで「浄化」という行為に「来世」への意識が紐づきます。でも、練習に来る人のすべてがそれをすんなり受け容れられるとは限りません。


わたしは、日本人は唯物論的な感覚で生きている人のほうが圧倒的に多いと認識しています。他人に迷惑をかけないために元気でいたく、ピンピンコロリしたい。死んだら終わりだと思っているからこそ、立つ鳥跡を濁さずという故事ことわざが心にささる。少なからずそういう美学を持った人たちにヨガを伝えているという前提でヨガ講師をしています。


唯物論的な感覚で生きている人にとって、いっけんストイックに見えるアーサナを行うヨガは、「痩せたい」などの理由がない限り不可解なものに見えます。じっくりねじっていくポーズを時間をかけて行うことは、時間効率の悪いストレッチかもしれません。
そこも踏まえて、以下のように話しています。

たとえばアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのようにウジャーイ呼吸で身体内の熱を使いながら行う練習は、煮沸消毒・熱湯で洗うようなものを捉えてください。
じっくり土台を固めてからねじっていく、マッツェンドラ・アーサナをじっくり深めていくような練習は、水道の蛇口の錆を取るようなこすり洗いするようなものを捉えてください。


いずれにしても背骨を中心に広がる魂の住処の浄化を目的としているということを、コンタクトレンズやメガネの洗浄にたとえてお話します。
実際、アーサナ(体位)と呼吸(気の通しかた)も掃除のそれと似ています。身体を浄化しながら、心のメガネも洗っている。
わたし自身、そんなイメージで練習をしています。

ビンゴでギーター 3章35節

※2017年1月に関東で選定者が増えたため、加筆しアップデートしました。 

この節は関西で2名、関東で4名のかたが選んでいました。前半は18章47節と同じですが、カーストのない日本人にはこの3章35節のほうが沁みやすいようです。

18章47節の後半は「本性により定められた行 為をすれば、人は罪にいたることはない。(上村勝彦・訳)」というもの。ヒンドゥーではカースト自然法則(法 / ダルマ / dharma)の延長で神が与えたものとされているのでこのような節があるのですが、3章35節では「他人の義務」という表現がされており、この部分にハッとする人が多い。カーストのない、自由に仕事を選べる社会にいても、このような気持ちがわいてくる。

ひとりは、上村勝彦訳と田中嫺玉訳を比べて読んでいました。

自己の義務の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。

自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行なうことは危険である。

上村勝彦 訳

このかたの選定理由は、1行目と2行目それぞれにありました。(東京に参加・Hさん)

1行目に対しては、以下の理由でした。

  • 人のことがうらやましくなることがある。自分の仕事(自営業のような感じ)と、企業のサラリーマンのように60歳くらいまで給料が出たりボーナスがある仕事を比較してうらやましく思うことがあるけど、自分は自分のことをやらないといけないと思うことが多いから。

2行目に対しては、以下の理由でした。

  • 「自己の義務に死ぬことは幸せ」とまでは思わないが、「他者の義務を行なうことは危険」と思うことがある。困った人を助けるような仕事をしていると、やりすぎちゃうときがある。でもそれはその人の力を奪うことになる。
  • やりすぎてしまうときは自分の中に欲があって、欠けているものを埋めにいっているようなところがある。あとで関係がギクシャクすることが多い。
  • 自分の中に「親切にするのは善いことだ」という価値観に陥りやすいところがある。でもそれはやめたほうがいいと考え、いまちょうど努力しているところ。

 

 

ほかのかた(5人)は、田中燗玉さんの訳を読んでいました。

他人の義務をひきうけるより 不完全でも自分の義務を行う方がよい

他人の道を行く危険をおかすより 自分の道を行って死ぬ方がよい

田中嫺玉 訳

 

それぞれの選定理由は、このようなコメントでした。

  • 自分と冷静に向き合って自分が何をしたいのか理解し、それを信じて進む(勇気をもつ)大切さを実感したことが最近ありました。一見、これこそ自分の進む道と思っていても単にしがみついている場合もあるし、そうじゃないかもしれないですし、見極めが難しい事だなと思いました。(東京に参加 Mさん)
  • 夫に病気が見つかったとき、「わたしは、この先どうなるの?!」と、まず自分を案ずる自分がいました。そのとき、夫には夫の、自分には自分の人生があるはずなのに「他人の道」を行っていた、依存していた自分に気づきました。自分の道を見つけていかなければいけないと思いました。(神戸に参加・Dさん)
  • ボランティア活動をしていた頃、そこで忠実に業務をこなしていたつもりだったのが、いつの間にか「こんなにわたし、よく怒る人間だったっけ?」と思うようになりました。しばらく違和感を持ちながら続けていたのですが、執着を棄てるためにやっていると思っていたことが、執着の対象に変わっていたことに気がつきました。離れてみたら、そこに「守られていた」と考えられるようになって、今はその頃よりも自分で決めていることが多く、楽しくなってきました。(東京に参加・Tさん)
  • あるヨガの組織の中に所属していた頃、なにかに対して「清浄ではない」と考えるムードに包まれているのを苦しく感じたことがありました。その組織を離れてみたら、それは他の誰かの義務であったのかもしれないと思うようになりました。(東京・Sさん)
  • 組織の中で意にそぐわないことがあっても、それが役割であったり、それで経済が回っていたりします。どこに焦点を合わせていいかわからないこともあります。上から指示があれば従うのだけど、それもない状態で雇われています。指示がないので自分で決めなければいけない、でも横からちゃちゃは入るという状態でやっていたので、辞めることにしました。いまは後処理をしています。これまでは「それなりに自分はこなせるし、ナンバーツーのポジションがいい」と思っていたのだけど、不本意な思いを抑えられないこともありました。でも、独立することに恐れがありました。安定を考えると続けるほうがよい、ひとりになるのは破滅の道かもしれない。でもどうせ死ぬなら……、と考えたときにこの節が刺さりました。(神戸に参加・Mさん)

 

この最後のSさんのコメントを聞いて、過去に4章22節を選んだ人が、はげしくうなずいていました。田中嫺玉さんの訳は「ある組織からの自立」について考えることがあるときにとても沁みる訳ですが、本来のギーターの主旨として含まれる要素としては、


本性にあった仕事=カースト
 ↓
アルジュナの本性は「武士(クシャトリヤ)」というカーストなので、戦うのが義務
 ↓
だから、やりなさい

 

ということです。

その点を踏まえつつ、さまざまな訳を読んでみましょう。

不完全に遂行せられたりとも、自己の本務は、美事に遂行せられたる他人の本務に勝る。

自己の本務において死するは勝る。他人の本務の遂行は、恐怖をもたらすのみ。

辻直四郎 訳

「美事」という表現は意訳的な当て字のようですが、とても奥が深いです。そして「恐怖をもたらす」というのは独特な訳です。

 

欠くるところありとも、己の本務の遂行は、見事完遂せる他者の責務にまさる。

己の本務に死すはすぐれ、他者の責務の遂行は危険をもたらす。

鎧淳 訳

あまり脚色のない、原典のサンスクリット語の羅列に近い訳です。

 

自己の義務の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。

自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行なうことは危険である。

上村勝彦 訳

「よい」「勝る」「すぐれる」となっていた部分が「幸せ」と訳されています。ここはいわゆる「幸福=sukha」ではなく「~のほうがよい」という語。田中燗玉さんほど情緒に語りかけることはないものの、本題の周辺での単語選びに深みのある訳です。

 

Better ones own duty, though devoid of merit, than the duty of another well performed. Better is death in one's own duty; the duty of another is fraught with fear.

iphonegita

 英語になると「devoid of merit」が、「別にメリットがなくても」という雰囲気に聞こえて、かえって現代人は本題に近づきやすいように思います。

 

 

新しい訳は「義務」、昔の訳は「本務」となっており、これは日本語の変化に合わせた違いでしょう。「務」の要素はいずれも dharma です。この節には「sva-dharma」と「para-dharma」があり、ここが「自分の義務」「他人の義務」の違いになります。自分の義務に含まれる「sva」は「おのずからなる性質」をあらわしま す。古代インドでカーストはヴァルナと呼ばれ、自然の法則の延長として定義されていました。そのカーストに生れた状況そのものが「おのずの性質」と考えられるため、クリシュナはこのように語っているというわけです。


 sva

 

自分で仕事や働きかたを選ぶことのできる環境にいるわたしたちにとって、これは「自分の意志で決めたこと」として咀嚼され、カーストがないにもかかわらず、自己を省みるきっか けになっています。先の三人のかたは、「義務」を自分で定義していたことに気づいたそうですが、その「自分で決めたわけでもない義務」はどこから生れてきたか。わたしはこれが、 「帰属意識」のダークサイドではないかと思います。

東京のTさんが「守られている」という表現をされましたが、大人になっても精神的に自立して日々を送っていくというのは、とても むずかしいこと。仕事をしているとどんな環境でも多少の不満は発生するものですが、自分のなかにある帰属意識を満たしてくれている側面に感謝することができれば、もう少し楽になりそうです。そして同時に「sva」から動ける仕事はなにかを、ゆっくりと探っていく。

日本人同士でギーターを読むと、また奥行きが違ってくるのが興味深いです。

 

あわせて読みたい

執着にもバリエーションがある

バガヴァッド・ギーターの読書会で、気になる節として13章10節を選んだかたが、

『ひとことで「執着」といっても、それをよくないと思っている人もいるし、むしろわたしの場合は少し執着しているふりのようなことをしないと相手を悲しませたり怒らせてしまうことがあって…』

  と話してくださったのをきっかけに、ギーターに出てくる「執着」にはいくつも語があって、この節では「sakti(サクティ)」という言葉が使われています、という話をしました。
執着にもいろんなはたらきかたがあって、ギーターにはいくつもの語が出てきておもしろいのですが、3つ紹介します。

執着のニュアンスを分けるならこんな感じです、

  • raga(ラーガ):親愛、焦がれる、情熱的に好き、欲がある感じ
  • sakti(サクティ):関係の深さや関係性にこだわる感じ
  • sanga(サンガ)一緒でありたい、つながっていたい、集まりたい


中国語の「関係 / グワンシ」は サクティ が近そうですが、日本人のつるむ・所属意識の感覚はサンガのほうが近そうです。
「離欲」にあたる語は「viraga」であることが多く、「vi=離れる」「raga=欲」です。ヨーガ・スートラでこの語になじみのある人もいるでしょう。
今回話のきっかけになった13章10節でのサクティは「asakti」で「a=not・ない」「sakti=関係性へのこだわり」です。妻、息子、家との関わりかたへの執着を対象としています。


漠然と不安になったとき、そこに執着が満たされない感情があったとして、いま自分はどの種類の執着が満たされていないのか…。
あえて分けようとしてみると、対象ごとに執着の性質も違うことがわかります。わかりやすい例でいうと失恋であればラーガ、退職であればサクティ、卒業であればサンガというように。
対人関係で漠然と不安を感じたとき、誰に対するどういう性質の執着を自分が持っているのかを棚卸しすることで、より自分の状態が見えてくるかもしれません。