まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 3章13節

この3章13節は東京でビンゴしました。
お二人とも上村勝彦訳を読んでいらっしゃり、それぞれ理由を聞かせてくださいました。

  • 食欲万歳、常に力いっぱい食べるのを楽しみとする毎日なので、この節が気になりました。註釈を読んで「結果に執着しない行為なんて、そんな無茶な~」とも思いました。(東京・Iさん)
  • 蓄財という発想のない働き方をしていた人のことを思い出しました。亡くなる直前まで楽しそうにしていたので、この節が腑に落ちました。(東京・Mさん)

Iさんは自身の行為を省みることになり、Mさんは罪悪から解放されていったであろう知人のことを思ったそうです。


この節は註釈でマヌ法典との関連性に触れられているので、並べてみます。

祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
バガヴァッド・ギーター 上村勝彦訳

 


【家長の食事】
116:夫婦は、ブラーフマナ(の特別客)、家族、扶養人が食べ終わってから、残り物を食すべし。
117:家長は、神々、リシ、人間、祖霊、家の守護神を敬って後に(すなわち五大祭儀を終えてから)(彼らに与えられた食べ物の)残りを食すべし。
118:自分のために料理する者はまさしく罪を食べる。なぜならば、祭儀の残り物こそ善き人々の食べ物であると規定されているからである。
マヌ法典 3章116~118節 渡瀬信之 訳

 
マヌ法典の3章118節と連動しています。
ポイントは「調理する・料理する」のところにあります。行為にフォーカスがあてられています。
バガヴァッド・ギーターの3章13節は、前半に善の行為・後半に悪の行為というようにわかりやすい対比になっていて、悪のほうの行為の目的は少し訳によって割れます。上村勝彦訳では「自分のためにのみ」となっています。
学者のかたの訳は一様に、ここに感覚の楽しみや欲の要素を入れていません。

祭祀の残饌(供物の残余)を食らう善人は、一切の罪悪より解放せらる。されど自己のためにのみ調理する悪人は罪垢を食らう。
辻直四郎 訳


祭式の残饌を亨くる善良の士たちは、一切の罪垢より解き放たる。されど、己れのため炊ぐ邪悪の徒は罪穢を受く。
鎧淳 訳

 
上記の、"自分のため" "自己のため" "己のため" の箇所を、自分の感覚の楽しみのためにと訳す本もあります。

神々に供養した食物をいただく人は、全ての罪から免れるが、己の味覚の楽しみのため食物をとる者は、罪そのものを食べることとなる。
日本ヴェーダーンタ協会

 

神に供えた後の食物をとる正しい人は
凡ての罪から免れることができる
味覚の楽しみのために食物を用意する者は
まことに罪そのものを食べているのだ
田中嫺玉 訳

 

この節を選ばれた冒頭のIさんの読まれていた訳(上村勝彦 訳)には味覚の楽しみというフレーズはなかったのですが、Iさんはこの要素をご自身の経験・感覚から読み取られていたようです。満腹感もまた味覚同様、感覚。
この部分は「atma karana」→「自己+理由」なので感覚のことはとくに指していないのですが、そのまえに「bhunjate」という語が使われており、これは平らげる、消費する、使うという意味があり、五感の楽しみ(味)よりも満腹のほうがより近いかもしれません。


わたしはこの節が興味深いと思うのは「調理」という行為について述べている点です。
食べることも同じく行為なのだけど、食べることは生きるための行為であるのに対し、調理は祈るような行為。手間・時間・動作の体感としてすごく納得する部分がある。
一人用の食事で自分のためだけにしている作業でも、その行為を切り出してみると、ただ感覚を満たすためだけの雑なときと、祈るように手間をかけるときがある。
行為をする、作業をする、はたらくということに対して前向きになっている瞬間には、どこか祈りに似た感覚がある。
3章13節は、特定の信仰(神)を持たない生活をしていても感じるところの多い、とても示唆に富んだ節です。