まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

存在するものが認識されないのは、こんなとき

サーンキヤ・カーリカー 第7節・その注釈で述べられていること

(存在するものでも、このようなことにより認識されません)

  1. 遠すぎる
  2. 近い
  3. 感覚が機能していない
  4. 注意力が機能していない
  5. 微細
  6. 障害物がある
  7. 隠されている、制圧されている
  8. 似たものを混同し、混乱している

 

 <「サーンキヤ・カーリカー」内でのこの節>

「存在するものでも、このようなときは認識されません」というのは本文にあるのではなく補足的な記載です。本文は8つの状態の語が羅列されています。

「存在するもの」はプラクリティのことを指しています。プラクリティの説明に入る前に、このような「認識されないもの」を俯瞰するためのリストが置かれています。

 

 <日本語化の意図メモ>

サンスクリット文は動詞や形容詞がかかる対象がよく脱落しますが、それを入れると、たぶんこんな感じです。

  1. 対象が遠すぎて見えない
  2. 対象が近すぎて見えない
  3. 見る側の感覚が機能していない
  4. 見る側の注意力が機能していない
  5. 対象が微細すぎる
  6. 対象と見る側の間に障害物がある
  7. 対象がなにかに隠されている、制圧されている
  8. 見る側が対象と似たものを混同し、混乱している

注釈では「近すぎて見えない」の例に「まぶた」が挙げられます。サーンキヤ・カーリカーに限った話ではありませんが、こういうところがインド哲学の魅力です。

 

<用語メモ>

遠すぎること、距離がありすぎること(atidurat / ati+durat durat=from a distance)
近いこと、近すぎること(samipyad)
感覚が+機能していないこと(indriya+ghatan)
損なわれる(ghatan)
注意力が機能していない、マインドの不在(mano'navasthanat)
微細(sauksmyad)
障害物がある、干渉される、介在される、おせっかい(abhibhavat)
抑制、抑圧、隠蔽(abhibhavat)
似たものを混同する(samanabhiharac)

 

<関連メモ>

「チャラカ・サンヒター」第11章8節(矢野道雄 訳) より

CS11-8:

もの(ルーパ)は存在していても、近すぎたり遠すぎたり、覆われていたり、感覚器官が麻痺していたり、意識が集中していなかったり、同じものがたくさんあったり、他のものに圧倒されていたり、小さすぎたりすることによって直接知覚ではとらえられない。したがって「直接知覚の対象だけが存在し、その他のものは存在しない」と言うのは、吟味不足である。

 

ヨーガ・スートラの第3章26節にはこの要素が少し含まれている。

中村元 訳)より

YS3-26:

(心の)活動(pravrtti)の光明(aloka)をあてることにもとづいて、微細なるもの(suksma)、隔てられているもの(vyavahita)、遠くにあるもの(viprakrsta)を知ることができる。

 

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