まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ブッディと内的器官は門番、外的器官は門

サーンキヤ・カーリカー 第35節・その注釈で述べられていること

内的器官とともにブッディはすべての対象を捉えます。
そのため、3種の内的器官が門番、ほかの外的器官が門ということになります。

 

<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
すべての対象の「すべて」は「過去・現在・未来」をさすことが、すでに第33節で説明されています。
ここでは第33節で説明された内的器官、外的器官のはたらきかたを、門番と門に喩えています。この表現は、ほかの聖典・教典にも出てくる「インド思想のいつもの喩え」という感じです。

 

<日本語化の意図メモ>
「いつものあれです」という感じを出しました。
「いつもの」を差し込むことによって、インド思想の各派に対して「サーンキヤでは、こうです」というスタンスを示すことになるので、この節はものすごく淡白に訳しました。この節自体、あまり言うことがないのに韻律あわせ・ボリュームあわせをしたのか、同じような意味をあらわす語が複数登場しています。
門は9の場合(バガヴァッド・ギーター5章13節)、11の場合(カタ・ウパニシャッド)などいろいろありますが、ここでは残りの器官という書かれかたで、数は出てきません。

 

<用語メモ>
他の内的器官とともに(santahkanana= santah + karana)
静かな、やわらいだ、しなやかな、止まった、死んだ(santa)
器官(karana)
ブッディ、統覚(buddhi)
すべて(sarvam)
対象(visaya,visayam)
捉える、把握する、理解する、熱心にやりだす、突入、飛び込む(avaghate)
それにより、なので(yasmat)
このゆえに、それゆえ、したがって(tasmat)
3+種類(tri+vidham)
門番(dvari,dvarin)
門(dvara)
残り(sesa)
その残り(sesani)

 

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