まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

あべこべの認識・無能力・満足・達成が認識を創造する。それは50種類にもなる

サーンキヤ・カーリカー 第46節・その注釈で述べられていること

これらは認識が創造するものです。(この創造は)あべこべの認識、無能力、満足、達成と呼ばれます。
グナが比率を取り合うはたらきによって、それは(さらに細分化されるので、数えると)50種類あります。


<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
ここから、こころのはたらきの種類を細分化してカウントしていきます。
第23節で【「決める」というこころのはたらき】の存在について述べた後、いったん先に解脱とそれにつながる功徳について述べ、この節以降で、あらためて【「決める」というこころのはたらき】の細分化した説明に入ってきます。


<日本語化の意図メモ>
冒頭の「これら」が指すものは、この節の前までのことと解釈するのが注釈書の流れを汲んだ通例のようです。
そのため中村元・湯田豊訳ではそれぞれカッコ書きで以下のように書かれています。

  •  これら(原因と応報との16種類)
  •  これ(16のグループ)

その次の「認識が創造するものです」の箇所は、「認識・観念」など訳者によって割れています。この節の pratyaya は buddhi を指すと注釈書にあるそうなので、「認識」のほうを選びました。

もうひとつの理由として、冒頭は「観念が創造するものの箇所を「ブラフマーの観念による~」とする、流出論的な解釈もあるそうなので(ヴェーダーンタに寄せたような解釈のもある、ということです)、「認識」を選択しました。


「無能力」と「満足」は訳しやすいのですが、「あべこべの認識」「達成」はより現代的なことばを探し、選びました。
「あべこべの認識」と訳した「viparyaya」は、ただの無知によるまちがいだけでなく、自分の解釈したいように引き寄せてようとする混乱も含みます。古くから「誤謬(ごびゅう)」という語があてられてきましたが、あまりにも日常とかけ離れた語になりつつあるので、ここでは「あべこべの認識」としました。

「viparyaya」は次の第47節でさらに5つに分解し詳述されます。

「達成」は、のちの第51節で説明される内容を踏まえると、中村元先生の使用された「確立」という用語の選択にうなるところです。

「成就」という訳もよいのですが、「成就」に神頼みのようなニュアンスを感じる人もいるかと思い、自身の行為の積み重ねによるものであることを含めるために「達成」としました。


<用語メモ>
これらは、これは(esa
観念、認識、理解(pratyaya)
創造(sarga)
あべこべの認識、柔軟性のない理解、倒錯、誤謬(viparyaya)
無能、無能力(asakti a+sakti / 先頭の a=not)
満足、喜び(tusti)
成就、達成、完成、確立(siddhya)
呼ばれる、名づけられる(khya)
グナ(guna)
はたらく、はたらき(vaisam,vaisamya)
取り合う、奪い合う、抗争、不平等(vaimarda)
種類、種目、種(bheda)
5(panca)
50(pancasat)

 

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