インドでシャルマ先生から六派哲学の概略を教わっていたときの話です。
授業のあとの生徒の質問はだいたい「○○派の○○と○○派の○○はどう違いますか?」というもの。そのときの先生のなにげないひとことが、ずっと心に残っています。
ぼくは違いではなく共通点を話すよ。
おすすめするでもなく言い切るでもく、ふわりとつぶやいた。このひとことが、あとあとじわじわ沁みてきました。それまでのわたしは、「違いがわかる男の、ゴールドブレンド」のようなイメージによって、「違いがわかること=理解すること」と思いこんでいました。
先生は「インドの哲学を君が理解しているかどうかは、君が自分の国の言葉で話せるようになってからでないとわからない。そしてぼくは日本語がわからないよ。ははは」という姿勢。
そして自分が質問を受けるようになってから、「共通点」に視点を向けることの奥にあるものをあらためて知ることになりました。
以前関西の講座でサーンキャの構造分解をしたあとに、こんな質問を受けました。
ジーヴァとプルシャは同じではありませんか?
なるほど。こういうふうに質問をされると、質問を受ける側のわたしも相手のことを理解しやすいのです。
そして深い話に入っていける。ちなみにこのときは、以下のように答えました。
「プルシャ」は30人の人がいたときにそれを30たらしめている、ユニークを定義する個。ジーヴァは「生命の存在」。なので、ひとつの生命体ととらえた理解から「プルシャと同じでは?」と感じるのは、理解が深まっている段階の質問だと思います。
「ジーヴァとプルシャはどう違いますか?」という質問になると、「なにをどう捉えているのか」の確認から始まります。言葉の意味は前後の文脈はもちろん、時代や教派によって微妙に定義が変わることもあります。
過去のわたしがそうであったように、「違いがわかるようになった=その分野の専門家になった」と感じる人が多いようですが、いまのわたしは「共通点と、そのからくり」の中にあるものに魅力を感じます。苦しみを理解するということは、そういうことなのかもしれません。