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まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

monkey mind, bull mind(モンキー・マインド、ブル・マインド)

 モンキー・マインドというのは、そのまんま「猿の心」。猿はいまバナナを手にしていても、誰かが新しいバナナをちらつかせると、いま手にあるバナナを手放して新しいものを取る。「すぐに目移りする」「足りていることがわからないこと」を指します。

サーンキャ・ヨーガのシャルマ先生は、「(いま仕事はiPadと携帯電話で回せているのに)いつもiPhoneのことばかり考えている人がいるよね」と、身近なインド人を揶揄してユーモアたっぷりに話していました。日本語でも「足るを知る」という表現はよく使われので、ヨーガを学ぶ際にも頭の中で引き出されやすい。仏教では人間の根本的な欲望として「渇愛」を説きますが、足ることを知らない自分はまだ人間になりきれていない猿だと、そういう気持ちになります。サーンキャ・ヨーガと仏教はアプローチが違っても、この「なぜ欲望は尽きないのか」という疑問に向き合っています。

 

 もうひとつ、ブル・マインドという言葉があります。これは、ヴェーダーンタのアシシ先生が話してくれました。ブルは、インドでは「牛」を示すのだそう。「牛の心」です。目の前に二つのものがあっても、ぼーっとして、特に決めない。no judgement なマインド。ヴェーダーンタ哲学の二元超越(善悪、幸不幸のジャッジをしない)を示す際に、とてもわかりやすい喩えです。

アシシ先生は「牛は、決めないじゃない? 決められないんだもの」と楽しげな話しかた。ニヤニヤしながら、「決められない」という側面も同時に示している*1。これもまた二元性を超えているかを問われる。日本語では「どっちもどっち」という表現がありますが、これはあまりよくない状況を並べていうときの言いかたなので、しっくりきません。どちらかというと、「くそみそ」のほうが近いのかもしれませんが、区別がつかないことと決めないことは、同じではないですね。

 

 バガヴァッド・ギーターの読書会で参加者のかたがお話してくれた「4章22節」の選定理由は、「決められない悩み」。ブル・マインドそのままの悩みもあれば、奥にモンキー・マインドが潜んだ悩みもある。「もっといい状況がやってくるのではないか」と、いま目の前にある機会に踏み出せないこともあります。生き方の選択肢が増えるほど、牛でも居られず、猿でも居られない。タマスもラジャスも抑える精神修行の場面が増える。

長年「なんとなく、そうなるもの」というムードで物事が決まってきたなかで、いきなり選択肢を多く示されても戸惑ってしまう。この悩みの構造は、実はとても根が深い。それでも悩む行為はモンキー・マインドを超えようとしているので、悩まないよりは人間に近い。悩んでこそ、人間なんですね。

*1:アシシ先生のヴェーダーンタ哲学授業は、問答をひたすら繰り返しながら二元論を超えることを学ぶ、禅のようなスタイルです。