ヴェーダーンタ哲学者シャンカラチャリヤの説明のあとに、シャルマ先生(サーンキヤ・ヨーガが専門)がさらっとコメントしたひとこと。
ヴェーダーンタでは「感じ方」は教えない
この言葉のメモに、赤線が引かれていました。当時のわたしが引きました。
そのとき赤線を引きたくなった気持ちは、いまでも変わりません。
その気持ちが、やっと何年かして言語化できるようになってきました。
「感じ方」は、伝承のしようがない
ということか。ヴェーダには、伝承という意味がある。
この話の流れになる前に、先生は練習の三本柱「to know, to act, to feel」の話をしていて、「インドの "feel" の修行はめちゃくちゃキツいぞぉ~」なんて、楽しい口調で話していた。あとで、この日のノートを日本語化した後、考えた。
ヨーガは「感じるために練習をする」ということだろうか。
日本語にしたほうがグイッと迫ってくる。感じることを抑えるために、感じることを学ぶ。「感じ方」って、なんだろう。「感じる」になにを紐付けるか、ということだとしたら、それは「感じる」の後に起こっていること。
ヴェーダーンタでは「感じ方」は教えない
わたしはこの話から、「感じる」と「紐付ける」の間に教えを差し込む隙があるか、ということを徹底的に探求したのがヨーガなのかもしれない。と考えるようになりました。