まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ギーターでしつこく説かれる「主体性」

バガヴァッド・ギーターにはいくつか太いテーマがありますが、そのなかのひとつが、主体性をもって生きること。直接的な表現は少ないですが、全体に薄紙を敷いたような存在感で根底にあるテーマです。
バガヴァッド・ギーター読書会で2章47節を選んだかたが、こんな話をしてくれました。

 以前、「無執着」を題材にしたレポートの課題を、わたしが習っているヨガの先生に提出したとき、【もうちょっと「わたしはこう考えた」「わたしはこう思う」というのがあればよかった。】という指摘を受けました。
 いま振り返ってみると、「無執着」というテーマに気をとられて自分をおさえたのかもしれません。わたしの「主体性のなさ」が出てしまっていたのでしょうね。


このお話を聞いたとき、すばらしい指摘をする先生だと思いました。「主体性を持つこと」は、自分で気づくしかないことなので、伝えることがとてもむずかしい。
いろんな主体性があります。わたしは、こんな例をあげて話しています。

 

 神から与えられた自分の肉体をドライブしているという主体性

 

自分の肉体を自分でドライブしているという意識があると、一般的には健康によくないと言われていることでも自分にとってはよいサイクルであれば、身体のルールに合わせるほうが快適です。健康によいと言われても、それを食べると身体が重く感じるのであれば、アンバランスを頭で取り入れたことになります。自分の傾向を監察して知っていくのがヨーガです。

 

 心のなかで「計算です」と言える主体性

 

年々シャレの通じない人が増えているので実際に言うと面倒なこともあるかと思いますが、気乗りしないことをニコニコしながらやるときも、「計算です」と心のなかで言えれば、主体性が生まれてラクになります。逆もまたしかりで、ニコニコ応じることを求められていても、求めてくる相手に主体性がない場合は、ニコニコしないほうがよいこともある。そこで「嫌われてもしょうがない。これも計算です」という主体性を持てると、そのときの自分と未来の自分が整合し、のちのち発生する、意志の記憶忘れによる余計な妄想(モーハー)を減らせます。
わたしは、「ジミー大西って、計算だったらかっこいいな」と思います。「計算です」というと汚いように感じるかもしれませんが、「計算=汚い」という概念は日本特有のものかもしれません。インド人はより精密で速い計算法を開発したり、真理にたどり着くための知の努力を惜しみません。
「よい計算ができることは、すばらしい」という目で世の中を見るようになると、世の中の景色が変わってきます。美しいものを見たときにはそのバランスに感動しますし、すばらしいサービスを受けたときは「計算だったらうれしいな」と感じます。よい計算ができることは、神の技に近づくこと。そのために修練が必要なのだと、そういう考え方になります。

 


バガヴァッド・ギーターのすごいところは、このベースの上にさらなる包容力をもたせているところです。主体性を説いているのであれば、


 自分から信じる者は救われるけど、
 「信じる者は救われる」って聞いたから信じるという人は救われません


と、なりそうなところが、そうじゃない。
クリシュナは「わたしのためにやりなさい」というもう一つの道(バクティ・ヨーガ)を根気よく提案し続け、アルジュナに「そんなにすごいなら、それを信じるために、そのすごい姿を見せてよ」と言われたらあっさり見せる(11章)。どこまでも、果てしなく救いにいきます。これはクリシュナの主体性をあらわしているのでしょうか。

答えはわたしにはわかりませんが、読んでるうちに「いいかげん自分で意志を持て、アルジュナ」という気持ちがわき、冷静になるとその矢印が自分に向かってくる。寄りかかる側と寄りかかられる側を交互に何度も見せられることで、主体性の芽にじわじわ水を与えられたような心の変化につながっていきます。


「バガヴァッド・ギーター」はここまでいかずに読むのをやめてしまう人が多いのですが、こんな視点で読んでみてください。