アーサナを何年も継続してからギーターを読むようになった人が、読書会で感官の制御に関する節を選ぶケースが増えてきました。
わたしはヨーガはその哲学に入る前にアーサナのクラスを経てから参加いただくのがよいと思っていて、アーサナのクラスはもちろんわたしのクラスでなくてもかまいません。
身体に意識を向けないままいきなりインドの哲学へ向かうと、たまに他人に向けてそれを振り回したい気分になってしまう人がいます。ほぼ無宗教に近い感じで生活している日本人とは違うのだという背景をすっ飛ばして、命令してくれる神に傾倒する人もいます。
わたしにはこれはオウム真理教に入信したエリートと近いメンタル設計に見えます。「優秀な自分を認めない世の中はおかしいと思っていた。やはり、他人が間違っていたんだ!」と、聖典もなぜかそんなふうに都合よく自分の過去を肯定するストーリーに変換して読み取ってしまう。
このマインドのまま読むと、同じ文章を読んでも他人を攻撃する材料に使うことになります。自己肯定を通り越して他者に説教をするようになると、やっかいです。"頼まれても望まれてもいないのに、教えたい" という気持ちは、第三者から見ると原理主義的な激性に見えます。そもそも、頼んでいないので。
インド人ではないわたしたちは、やはり土台作りとしてアーサナのクラスをじっくり丁寧にこなしてから読むほうがよいのだな、というのが近ごろのわたしの実感です。そうすることで、ファンデーションを塗らずにいきなりチークやアイシャドウを塗ったような、どうにもつっこめないメイクの仕上がりみたいな心の状況になることを防げるように思うのです。
アーサナの練習をものすごくじっくり丁寧にやると、
ギーターを一冊読んだのと同じくらいの感覚になります。
これは、読書会でなんとなくわたしが口にしていたことなのですが、本当にそうであるなぁとしみじみ思います。