まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

訳のトーンの差を見る。バガヴァッド・ギーター9章23節の「avidhi purvakam」

バガヴァッド・ギーターを読む会の関西開催で話した、ギーターの日本語訳のおもしろさについて。

ギーターをいろいろな訳で読んでいると、こういうのは訳しにくいのだろうなと思うところがいくつもあります。
9章23節の最後「avidhi purvakam」の部分は、学者の先生の訳とそれ以外の訳のニュアンスが少し割れていて、興味深いです。
「purvakam」は前の語を引いて「~によって」とか「~で」という意味です。according to 、です。
そしてそれがかかってくる「avidhi」は「a(否定)+vidhi」。「vidhi」は「正規ルール」「正しいやりかた」「儀式」「メソッド」というような意味です。
これが辞書を引くとおもしろいところなのですが「avidhi」で辞書を引くと、


 通常じゃない → 異常 → まともでない


というふうに、少し展開の進んだ意味を含んでいきます。


この部分の訳を読み比べると、岩波書店講談社中央公論社から出版されるような学者の先生の訳は「正規ルール」の反対の意味に近いニュアンスになっています。
(該当の箇所を太字にしています)

他の神々に帰依する人々も、信を抱き祀るに、また、クンティー妃の王子よ、作法に適わぬながら、ただに、われをば祀るなり。
鎧淳 訳


他の神格を信奉し、信仰を具えて祭る者、彼らもまた、クンティー夫人の子よ、〔実は〕われをこそ祭るなれ、たとい儀軌(祭式の規定)に適わずとはいえ。
辻直四郎 訳


信仰をそなえ、他の神格を供養する(祀る)信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。
上村勝彦 訳


作法、儀式、教えというような要素を踏まえた訳になっています。
インド思想は、祭祀のありかたがそのまま思想を分けるようなところがあるので、この部分を抜かないように配慮するのが学者的ともいえます。


いっぽう、それ以外の訳者の日本語訳は「正しい方法ではない」というふうに、打ち消し方がシンプルです。

アルジュナよ、信仰心を持ち、他の神々を礼拝する信者達も、正しい方法ではないが、私を礼拝している。
熊澤教眞 訳

 

また深い信仰心をもって他の神々を拝む人々もいるが、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 実は彼らもまた、正しい方法ではないのだが、やはり私を拝んでいることにな るのである。
日本ヴェーダーンタ協会


クンティーの息子よ 他の神々の信者で
真心こめて清らかな気持で信仰する者たちは
実はわたしを拝んでいるのである
正しい方法ではないけれども ──
田中嫺玉 訳

 
ここでこれらの「打ち消し方がシンプル」なバージョンを読み比べると、田中嫺玉さんの訳の倒置の効果にうなります。
「真心こめて清らかな気持で信仰する」は少し情緒的に強調しすぎかなとも思いつつ、最後が倒置になったようなまとまりと掛け合わせると、総合的に響きかたに全体性が出てくる。
サンスクリット語でこの部分(avidhi purvakam)は一番最後になっているので、田中嫺玉さんの訳のようにするのがそのままの置きかたです。ですが、その前の行は順番どおりではありません。日本語にしたときに「avidhi purvakam」の部分が倒置の効果を最大限に発揮されるよう、それ以前の三行が構成されているように見えます。


ちょっと細かすぎる読みかたかも知れませんが、わたしはこういうところがギーターのおもしろさでもあると感じています。