インドで受けた哲学の授業時間は、先生がなんとなく話す「こういうことってありますよね。あなたはどう考えますか?」というよう投球から始まってディスカッションへと展開し「ではそろそろ今日の本題に入ろうかな」となったりして、あまり英語ができないわたしはすべてのメモが並列。え、いまの枕だったの? となる。
今から書く話も本題だったのか副題だったのかアイス・ブレイクだったのか助走だったのかわからないのですが、こんな投球で始まったディスカッションがありました。
スピリチュアルな人、そうでない人、という言いかたをする人がいますが
同じ人でも、パラメータがオンになったりオフになったりする。
ヨーガな瞬間と、そうでない瞬間。
わたしはもともと日本人同士の日常会話でさりげなく身近な人が使う「いい人」というフレーズを怖いと感じていたので、どんな説明がされるのだろうと前のめりになりました。(わたしは「いい人」という表現を「(わたしにとって都合の)いい人」という意味だとすると、するととても怖い表現だと感じていたのです。親が子どもに「いい子」というのとあまり変わらない言葉を社会人同士でやりとりしていることに疑問を持っていました)
先生は「ヨーガな瞬間と、そうでない瞬間」を観るポイントについて教えてくれました。
セルフ・チェックをするときに、これらの三つの観点で観る。
授業は英語で、もとは thinking,attitude,behavior.
一般的にヨガの広告やイメージ訴求で使われる「ヨガ的」なものは、あくまで他者と共有する共同幻想ありきの「ヨガ的」。その場の状況やモード、流行とともに変化していくヨガです。
それとは別に、日常には自分の信条のようにヨーガがある。自分のパラメータがこの三つの観点においてヨーガ優勢になっているか、そうでないものが優勢か。それぞれが、なん%ヨーガ的?
わたしはノートのこのページを開くたびに、「そうか、こんなふうに観ればいいのか」と思えて心が安定に向います。思考ひとつをとっても「"こんなことを思うわたしはヨガ的じゃない" と思っているわたしがヨガ的じゃない」という観かたになります。ヨガは厳しくもありやさしいものであるなと思うのは、こんなときです。