まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 12章17節

この節は東京で2名のかたが「刺さった節・気になった節」として選んでいました。それぞれ以下のような理由をお話いただきました。

 

  • 最近抜け駆けをされて人に出し抜かれてしまったことがあり、心がひどく乱れ、この節が深く沁みました。敬愛するものに対しての自分のスタンスを再確認することで、心を鎮めることができました。(東京・Kさん)
  • 看病をしているときに支えになった言葉のひとつなので、選びました。
    自分が何か影響を及ぼせるかもしれないと思うと、それが善意であっても相手から無意識の反発を食らいやすいし、うまくいかなかったときには自分もつらくなります。(東京・別のKさん)

 

この節は仏教などでも見られるよくある説法のようでありながら、文末が特徴的です。

喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛(バクティ)を抱く人、彼は私にとって愛しい。
上村勝彦 訳

 

どんな物事にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
田中嫺玉 訳

 

それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は上村勝彦訳で添えます)

  • hrsyati(喜)
  • dvesti(憎)
  • socati(悲)
  • kanksati(望)
  • subha(好)
  • asubha(not 好 ⇒悪 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)

 

 

バガヴァッド・ギーターのこの節を読むと、わたしは「ヨーガ・スートラ」の第1章33節を想起します。

他の幸福を喜び【慈】不幸を憐れみ【悲】、他の有徳を欣び【喜】不徳を捨てる【捨】態度を培うことによって、心は乱れなき清澄を保つ。
スワミ・サッチダーナンダ/伊藤久子 訳

 

慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を想念することから、心の清澄が生ずる。
佐保田鶴治 訳


それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は佐保田鶴治訳で添えます)

  • maitri(慈)
  • karuna(悲)
  • mudita(喜)
  • upeksa(捨)
  • sukha(幸)
  • duhkha(不幸)
  • punya(善行)
  • apunya(not 善行 ⇒悪行 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)

 

心の状態を示す語はヨーガ・スートラ、バガヴァッド・ギーターでそれぞれ別の語が用いられていますが、とてもよく似た節としてわたしは捉えています。
ヨーガ・スートラは心の取扱説明書のような淡々とした記述ですが、バガヴァッド・ギーターはクリシュナが対話型で説いてくれています。

ビンゴでギーター 2章62節と63節

(※2019年に東京で選定者が増えたため加筆しアップデートしました)

この節は関西で2名、関東で6名のかたが選定されました。理由をお聞きすると、怒りから破壊へのプロセスの説明がわかりやすいということでした。それぞれ以下のようなコメントでした。

  • 何度も読んでいるのですが、毎回自分の解釈が違うことに驚きます。昔は「執着」があるからこそつらいことも頑張れるのになぁと思っていた時期もありました。最近は、なんとなく「冷静さ」を失うことが一番危ういと思えるようになったので、この「怒りから迷妄が生じ」の部分に強めに同意する自分がいます。(東京・Yさん)
  • ギーターを読んでみたらなにが言いたいのかさっぱりわからないところも多いですし、ツッコミどころも満載でなかなか前に進まないなか、この節は気になりました。(神戸・Sさん)
  • 愛着→欲望→怒り と繋がるところが気になりました。はじめは「愛着→欲望」はわかるのだけど「欲望→怒り」がなんでかな、と思いました。でもよく考えてみると、戦争もまずは「自分の家族を大切にしたい」という思いがあって、それが、幸せにしたい→できない→貧富の差でできない(よそからとってやれ、など)というふうになったりするのかなと。テロリストの行為も、もともとは愛する対象を幸せにできないことへの怒りからはじまるのかなと。(東京・Kさん)
  • 最近のストーカー犯罪に対しての加害者の存在を思い起こされたのと、餃子の王将社長の銃撃事件を思い出しました。報道では社長さんは毎朝誰よりも早く出勤してきて自ら本社の玄関掃除などをされたり、全国の王将の社員の顔を覚えていたりと「人格者」のような感じで報道されていたのですが、“恨み”(執着)を持たれてしまうということがあるのだなと…。自分も何か分からないあいだに巻き込まれているようなことがあるかもしれないと京都に住んでいる(王将本社の近くに住んでいる)友達と話していました。(神戸・Hさん)
  • ある日会社の後輩の行動にすごくカチンときてしまいました。あとで冷静になって考えてみれば、本当に気にするようなことではない内容なのです。しかし、なんだかその時はものすごくモヤモヤしました。その後「自分がやった仕事に対する執着だ」と冷静に分析できました。(東京・Aさん)
  • 夫と些細なことで口論となった時、言った言わないの水掛け論になることがあります。相手を説き伏せようとしても、権力争いを続けるだけで解決にはなりません。ギーターのこの部分を読んで、その仕組みがわかった気がしました。勝とうと思わないことにしました。負けず嫌いという相手の性格を変えるのは難しいので、その事態に、自分の心の問題として「いま相手は、記憶の混乱が起こって知性を失っているのだな。こちらの言葉は受け入れない状態だな」というふうに、眺める自分に変わることはできると思うので。自分のほうが正しいと思うけど、争うのはやめておこうという段階です。(東京・Yさん)
  • 欲望と、変な行為にとらわれた人の気持ちや行動の流れがうまく説明されていて、なるほどと思いました。ストーカーや、誰でもいいから殺したかったという人、殺人でなくても盗撮をする人も、欲望にとらわれて他が見えていないと感じます。身近なことでは、ストレスの多い職場にいたときの夫は扱いずらかったことを思い出しました。(東京・Iさん)
  • 人との距離が近い職業ほど、情緒の統制が難しいと感じます。夜勤が続いて精神的・肉体的疲労がピークな時ほど、患者さんから暴言を浴びせらたりするのは不思議です。しんどくてマズい時は、いつかニュースでみた痛ましい事件を思い出し「明日は我が身?」と、脅かしクールダウンさせるような状況が続いています。医療従事者のマニュアルには「統制された情緒関与」といって、「どういう状況であっても客観視せよ」というようなことが示されているのですが、「そうは言っても…」ということがあります。(東京・Kさん)

この2つの節は人間の怒りの感情の仕組みとその先にあることを示すもので、たった4行でよくもこんなにシンプルに表現するものだと唸る節でもあります。

人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破壊する。
上村勝彦 訳


ほとんどが仕組みの説明のため、日本語では翻訳者ごとのニュアンスの幅がそんなに広がることがありません。
英語版の例もあわせて表にします。(訳者敬称略)

サンスクリット語 上村 田中 熊澤 iPhoneGita SWAMI RAMA
sanga 執着 愛着 執着 執着 執着 attatchhment attatchhment
kama 欲望 欲望 欲望 欲愛 欲望 desire desire
krodha 怒り 怒り 怒り 忿怒 忿怒 anger anger
moha 迷妄 妄想 妄想 迷妄 迷妄 delusion delusion
smrti 記憶 記憶 記憶 記憶 記憶 memory memory and loss of mindfulness
vibhrama 混乱 混乱 混乱 混乱 混乱 confusion confusion
buddhi 知性 知性 理性 智慧 理性 reason faculty of discrimination

ここではスワミ・ラマの例を出しましたが、サンスクリット語→英語の場合は日本語の感覚とはまた違った妙味があります。
スワミ・ラマの英語を経由して日本語化すると、スムリティは「記憶そしてマインドフルネスの喪失」、ブッディは「分別能力」。現在はさまざまな心の状態を示す語がカタカナで使われるようになっているので、若い世代にはこちらのほうがスッと入ってくるかもしれません。


(参考)さまざまなギーター本はこちらで紹介しています。
uchikoyoga.hatenablog.com

ヴァールミーキの「ラーマーヤナ」は責任について書いている

インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は、日本語でいう「責任」とは少し違うニュアンスです。
ヨーガの授業でシャルマ先生がヴァールミーキの「ラーマーヤナ」は責任について書いているという話をしてくれたことがありました。
そのとき先生がお話されたことのメモとして、こんなフレーズがありました。

 

  • how responsible(責任感)
  • how can we(われわれに何ができるか)
  • what is possible(何が可能か)

 

ラーマーヤナ」では敵には敵の論理があって、悪の世界で喜怒哀楽をあらわにします。その悪役が哀しみにくれる場面の描き方には「ざまあみろ」という視点がまったくなく、とても平坦でありながら、胸が締めつけられる思いを誘う内容です。
神様の話=模範的な善でつじつまがあって悪は成敗されるものということにはなっていません。勧善懲悪の物語を無意識レベルで期待している状態で読むと、これが「responsibility」について書かれた物語だというところに気づくことができません。聖人も王も猿も善人も悪人も、それぞれが自分の「responsibility」をやっている。


この授業のノートを見直してから「ラーマーヤナ」を読み、インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は役割分担を前提とした責任ではなく、もっと広い意味で「ものごとを受容して自己をいかす」という意味なのではないかと理解するようになりました。

 


(参考)