この節は東京で2名のかたが「刺さった節・気になった節」として選んでいました。それぞれ以下のような理由をお話いただきました。
- 最近抜け駆けをされて人に出し抜かれてしまったことがあり、心がひどく乱れ、この節が深く沁みました。敬愛するものに対しての自分のスタンスを再確認することで、心を鎮めることができました。(東京・Kさん)
- 看病をしているときに支えになった言葉のひとつなので、選びました。
自分が何か影響を及ぼせるかもしれないと思うと、それが善意であっても相手から無意識の反発を食らいやすいし、うまくいかなかったときには自分もつらくなります。(東京・別のKさん)
この節は仏教などでも見られるよくある説法のようでありながら、文末が特徴的です。
喜ばず、憎まず、悲しまず、望まず、好悪を捨て、信愛(バクティ)を抱く人、彼は私にとって愛しい。
(上村勝彦 訳)
どんな物事にも喜ばず悲しまず
こうあって欲しいとも欲しくないとも思わず
吉凶禍福に超然として心動かさぬ者
このような人をわたしは愛する
(田中嫺玉 訳)
それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は上村勝彦訳で添えます)
- hrsyati(喜)
- dvesti(憎)
- socati(悲)
- kanksati(望)
- subha(好)
- asubha(not 好 ⇒悪 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)
バガヴァッド・ギーターのこの節を読むと、わたしは「ヨーガ・スートラ」の第1章33節を想起します。
他の幸福を喜び【慈】不幸を憐れみ【悲】、他の有徳を欣び【喜】不徳を捨てる【捨】態度を培うことによって、心は乱れなき清澄を保つ。
(スワミ・サッチダーナンダ/伊藤久子 訳)
慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操であるが、これらの情操を想念することから、心の清澄が生ずる。
(佐保田鶴治 訳)
それぞれサンスクリットは以下の語で書かれています。(対応する日本語は佐保田鶴治訳で添えます)
- maitri(慈)
- karuna(悲)
- mudita(喜)
- upeksa(捨)
- sukha(幸)
- duhkha(不幸)
- punya(善行)
- apunya(not 善行 ⇒悪行 / 先頭にaがつくとnotの意。反対の意味)
心の状態を示す語はヨーガ・スートラ、バガヴァッド・ギーターでそれぞれ別の語が用いられていますが、とてもよく似た節としてわたしは捉えています。
ヨーガ・スートラは心の取扱説明書のような淡々とした記述ですが、バガヴァッド・ギーターはクリシュナが対話型で説いてくれています。