まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

しゃーない、しゃーない。まんだ、まんだ。

先月開催したオンラインでの夜のほぐし会の雑談から。
ごあいさつを兼ねてお話しした内容に背景を添えて書きます。

ハタ・ヨーガの教典を読んでいると、ときどきオノマトペのような、繰り返す言葉に出会います。
そのなかに、似ているけれどもちょっとニュアンスの違うものがあります。
音をひらがなで書くと

 

 「しゃーない、しゃーない」「まんだ、まんだ」

 


登場するのはハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーのいくつかの節です。引用元はこちらの本です。

 

以下は「しゃーない、しゃーない」「まんだ、まんだ」が登場する節です。

2章15節
ライオンや象や虎の如き猛獣でも、徐々に馴らすことができるように、気も修練を続けていけば、終にはコントロールすることができるようになる。さもなくて、にわかに抑制しようとすると、かえって修行者を害することになる。

3章13節
それから、きわめてゆっくりとイキを吐く。決して粗暴に吐いてはならない。
以上が、偉大なシッダ(大師)たちによって、マハー・ムドラーとして説き示されたものである。

他にもありますが、単体で抜き出してもわかる節は上記です。
粗暴にやることもできるけれど、ゆっくりじっくり進むべし、という意味で使われています。

 

「まんだ、まんだ(む)」は、同じ教典の以下の節に登場します。

2章68節
<ブラーマリー>
この調気法に於ては、吸息は雄蜂の如き音を立てて急速に行ない、呼気は雌蜂の羽音を立ててゆっくり行なう。かかる修練をなすとき、ヨーガの達人たちの心のなかにある種の恍惚状態が生じた。

ンーーーーーと音を立てて呼吸をする方法の説明の部分ですがここは男性性と女性性の対比が表現に含まれています。「ハ」「タ」ヨーガの教典です。

 

「しゃーない、しゃーない」も「まんだ、まんだ」も、日本語にすると「ゆっくり」で、英訳では「slowly」と書かれますが、微妙な違いがあるとすると、こんな感じです。

  • शनै shanai(zanai)  ゆっくり・じっくり・徐々に
  • मन्द manda  ゆっくり・ソフトに・のんびり


ブラーマリーという蜂の羽音を立てる呼吸ではオス&メスで(男性性と女性性が)対になっているため、「まんだ」なのかもしれません。

わたしは教典のなかにオノマトペのような繰り返しが出てくると、先に身体的に日本語で反応するので、「まんだ、まんだ」は東北の方の訛りでと言われているような感じがしてクスッとにやけてしまいます。
同様に「しゃーない、しゃーない」も関西弁の感覚が起こる。
昨日今日でどうにかなるなるものではないけれど、それでもまあ行きましょうやという意味にも感じられて、好きな繰り返しです。

 


2020年で終わるかと思いきや2021年の半ばになっても終わらないパンデミックのさなか、おまじないのように覚えやすいフレーズを伝えたくなり、全国のかたにお会いできたオンライン版でお話しました。

動物には動物のビヘイビアがある。人間にはそこに「神的」「悪魔的」がある

シャルマ先生のクラスの頻出用語のひとつ、behaviour があります。
この単語は辞書で引くと、行動・動作・挙動・振舞い・素行などさまざまな日本語が出てくるけれど、今日のトピックの流れでは、マーケティング用語でよく使われる「ビヘイビア」がわたしにはしっくりきます。
状況に対して選ぶ行動、という意味を含んでくる、ただの傾向や癖よりももう一歩行動意識や行動原理に踏み込んだニュアンス。

 


先生は人間とほかの生物の違いを「内面にコンフリクトがあるかないか」と説明されていました。
個人の内面のコンフリクトは人生に影響を与え続けるもので、それを知る行為としてヨガの練習を始めるのです、と教わりました。
コンフリクトのレベルが、人間をつくると。そのあとで、このようにおっしゃいました。

 


 人間のビヘイビアには「神的」「悪魔的」がある

 

 

「神的」「悪魔的」という視点は、善悪の判断基準を安易に採用しがちな心に、すき間を作ってくれます。
自分の行動を正当化したいときに善悪の基準は便利なことも多いけど、その基準を他者から借用していることも多いもの。

悪魔的な善の使いかたもあるなと、この日のノートを読み返しながら、そんなことを考えました。

ヨガの練習は狂い止め・怒り止め・流れ止め

昨年の大きな環境変化のなかで行ったヨガクラスの冒頭で話したことを覚えてくださっていた人が、そのフレーズを寸分違わずメールにさりげなく書いてくださり、その時話したことを思い出しました。
その日は、練習の前にわたしが何年もかけて実感してきたことを話しました。アーユルヴェーダの3つのドーシャを、自分はヨガを通じて精神面ではこのように捉えているという話をしました。ヨガのメンタル面での効用について。
こんな話をしました。

わたしはヨガが狂い止め(カファ・カパ)、怒り止め(ピッタ)、流れ止め(ヴァータ)に役立つと思っています。

 

この3つのなかの怒り止め、ピッタは、いちばんわかりやすく説明不要かと思います。ここに効果を感じてヨガをしている人はけっこう多いのではないかと思います。アンガー・マネジメントなんて言ったりもしますしね。

 

そして流れ止めというのはヴァータです。風の性質と言われたりしますが、イメージとしては(野比のび太がなにかから逃げて走るときに足が車になっている、あの絵のような心の状態といったらイメージしやすいかもしれません。

 

そして、いちばんギョッとしたであろう狂い止めは、狂うなんて言ったら大げさに聞こえるかもしれませんが、こういうことです。
これはカファ(カパ)。鈍性と訳されたりしますが、どっしりするとか安定するとか、ポジティブな面もありますが、変化を嫌う性質とも言えます。状況の変化を嫌うあまり、頭の中で情報を自分のそうであってほしい状態に寄せていく。それが過剰になると、現実とどんどん乖離の幅が広がっていって、その幅が大きくなった状態で第三者と話したときに、他者の視点から見たら狂っているように見える。わたしは、狂うというのは自分だけではわからないので、そういうギャップのことかと思っています。

 

同じ水(H2O)でも常温ならさらさら、熱すれば蒸発し、凍れば固まりになる。同じものが転変(パリナーマ)すると捉えるのが、ヨガの視点です。

ヨガクラスの前に話すことは少しだけにしているので、このくらいのことを話したかと思います。

 
わたしはときどきヨガの練習の後に「なんでこんなにこのことに固執していたのだろう」と、一瞬自己を対象から切り離して見られる瞬間があります。その経験を繰り返すことで、日常でなんだかおかしいなと思う瞬間に「いつの間に自分はここに固執したのだろう」「もともとどちらでもいいと思っていたのに、片側にいったん視点を定めて雑に固執しているな」ということに気づくことができるようになりました。


トリドーシャという性質の捉えかたを知ったばかりの頃は、強く主張するのはピッタが優勢で、物事をさっさと片づけ(やっつけ)たくなるのもヴァータやピッタの優勢だろうかと捉えていたのですが、双方と紐づきやすくさらに根っこにある「変化したくない」「安定したい」という意識にも目を向けるようになりました。
トリドーシャはどれかひとつの要素の優勢をとらえて鎮めるよりも、すべてが連動している前提でバランスを探していく視点を持てる瞬間を得る。ヨガのメンタル面でのメリットは、そういう視点の獲得かと思います。


これを書いたのは2021年になって関東で再び緊急事態宣言が出された翌日です。

これからしばらく、多くの「安定したい」というエネルギーがあふれることを想像して書きました。