まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

やり残し(backlog)や集合的無意識とどう向き合うか

2020年に受けたオンライン講座の内容からの掘り下げです。
このシリーズは毎週1回の開催で、合計6回の講座でした。
シャルマ先生と話すのは1年ぶりでしたが、毎回のように現代の心理学者や僧侶の名前が出てきたため、2020年と2021年はこの講座のノートを追いかけるようにフロイトユングの本を読んでいました。(映画もおもしろかったですよ!)

 

このブログの「インド授業の小話」では、わたしの授業ノートの題材を取り上げています。
シャルマ先生の授業はわたしの英語力と予備知識では少しむずかしく、毎回あとから日本語の本を読んで理解を補う必要があります。

講義の中に出てくる人物名は、そもそも聞き手がそれを人物名だと知っているか、なんとなく聞いたことがないと推測できません。さらに、わたしのヒアリング能力では聞き漏らします。
先生の英語はインド訛りで、興が乗ってくるとそれがどんどん濃くなります。サッカーゲームが「そっかるげー」と聞こえたりして、途中でふと、「フットボールって言わないんだ」と気づく。授業中のわたしの頭の中はこのように、言語野が複雑にフル回転します。
同時にティーチャー・トレーニング時代のルーム・メイト(イタリア女子)から英語で「ちょっとー! 元気してたー? あたしよー!!!」とチャットでどしどし話しかけられるというティーンのような雑音もあり、とにかくわたしは受けている授業は、頭がてんやわんやです。

 

 

この講座のノートを見返すと、インドの聖人以外の名前では、フロイド、ユングカール・ロジャースアブラハム・マズロー、ティク・ナット・ハンといった人物の名前が登場しています。
わたしがヨーガの哲学を教わったシャルマ先生は「ヨガはセラピーだから」の背景を、いろんな角度からユニークな話の流れで教えてくれる先生で、このことについては「うちこのヨガ日記」の以下の後半で少し触れました。

 

 

前置きが長くなりましたが、このように様々な心理学者の考え方と照らし合わせながら「ヨーガはセラピー」であることを教えてくれる先生が、こんな話をしてくれたことがありました。

やり残し(backlog)や集合的無意識、very complexed phenomenon(メンタルの超複雑化)とどう向き合えばいいか、という話からはじまる授業でした。

 

この授業のなかで、先生がこんなお話をしてくれました。

サイコセラピスト(心理学者)は、二人の人間の間に、なにか「道具」をおくことがあります。
たとえば、カール・ロジャースは「無条件の愛(unconditional love)」をおきました。
それでクライエントは、自分らしさ(own way of thing)を見つけます。
【この部分について、先生は何度かの繰り返しのなかで unconditional regard love という言い方もされていました】

 

フロイドも、「道具」を使いました。カール・ロジャースはフロイドのサイコセラピー(精神療法)に新しいアイデアをもたらしました。
サイコセラピストはファシリテーターで、このファシリテートが「スペース」*1をつくるのです。


ヨーギーは、
ノー・ジャッジ(決めつけない)、ノー・リアクション(反応しない)の瞑想を道具にします。

 

この講座は串刺しテーマが「カルマ」なので、授業ではここからエゴ(i-ness)と do-re-ship あるいは、”エゴについてその所有者意識を持っていること”、という話へ進んでいったのですが、これはこれで壮大なトピックなので、このテーマでの書き起こしはここまでにします。

 

最後に。

今日のトピックの理解を助けてくれたのは、2021年12月に読んだこの本でした。


カール・ロジャースの精神療法について知らないと、今日書いたノートの部分を言語化できないと思ってきたなかで、たまたま書店で手にとって買ったこの本が大きな助けになりました。
他人の話を聞く方法を教えてくれる本でありながら、同時に自分の声を聞けないマインドについても教えてくれます。(著者はカール・ロジァース研究所に留学されていました)

 

今日書いたトピックの部分で、シャルマ先生のお話の引用部分にカッコ書きで記載した【この部分について、先生は何度かの繰り返しのなかで unconditional regard love という言い方もされていました】という部分の regard がずっと気になっていたのですが、東山紘久先生の本を読むことで、それは「LISTEN せよ、ASKするな」ということかと、その理解の参考にしました。

*1:複雑化してギュッと渋滞した精神にスペースをつくる、という意味とわたしは理解しましたが、「客観視の余裕」というような意味かもしれないとも思っています

しゃーない、しゃーない。まんだ、まんだ。

先月開催したオンラインでの夜のほぐし会の雑談から。
ごあいさつを兼ねてお話しした内容に背景を添えて書きます。

ハタ・ヨーガの教典を読んでいると、ときどきオノマトペのような、繰り返す言葉に出会います。
そのなかに、似ているけれどもちょっとニュアンスの違うものがあります。
音をひらがなで書くと

 

 「しゃーない、しゃーない」「まんだ、まんだ」

 


登場するのはハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーのいくつかの節です。引用元はこちらの本です。

 

以下は「しゃーない、しゃーない」「まんだ、まんだ」が登場する節です。

2章15節
ライオンや象や虎の如き猛獣でも、徐々に馴らすことができるように、気も修練を続けていけば、終にはコントロールすることができるようになる。さもなくて、にわかに抑制しようとすると、かえって修行者を害することになる。

3章13節
それから、きわめてゆっくりとイキを吐く。決して粗暴に吐いてはならない。
以上が、偉大なシッダ(大師)たちによって、マハー・ムドラーとして説き示されたものである。

他にもありますが、単体で抜き出してもわかる節は上記です。
粗暴にやることもできるけれど、ゆっくりじっくり進むべし、という意味で使われています。

 

「まんだ、まんだ(む)」は、同じ教典の以下の節に登場します。

2章68節
<ブラーマリー>
この調気法に於ては、吸息は雄蜂の如き音を立てて急速に行ない、呼気は雌蜂の羽音を立ててゆっくり行なう。かかる修練をなすとき、ヨーガの達人たちの心のなかにある種の恍惚状態が生じた。

ンーーーーーと音を立てて呼吸をする方法の説明の部分ですがここは男性性と女性性の対比が表現に含まれています。「ハ」「タ」ヨーガの教典です。

 

「しゃーない、しゃーない」も「まんだ、まんだ」も、日本語にすると「ゆっくり」で、英訳では「slowly」と書かれますが、微妙な違いがあるとすると、こんな感じです。

  • शनै shanai(zanai)  ゆっくり・じっくり・徐々に
  • मन्द manda  ゆっくり・ソフトに・のんびり


ブラーマリーという蜂の羽音を立てる呼吸ではオス&メスで(男性性と女性性が)対になっているため、「まんだ」なのかもしれません。

わたしは教典のなかにオノマトペのような繰り返しが出てくると、先に身体的に日本語で反応するので、「まんだ、まんだ」は東北の方の訛りでと言われているような感じがしてクスッとにやけてしまいます。
同様に「しゃーない、しゃーない」も関西弁の感覚が起こる。
昨日今日でどうにかなるなるものではないけれど、それでもまあ行きましょうやという意味にも感じられて、好きな繰り返しです。

 


2020年で終わるかと思いきや2021年の半ばになっても終わらないパンデミックのさなか、おまじないのように覚えやすいフレーズを伝えたくなり、全国のかたにお会いできたオンライン版でお話しました。

動物には動物のビヘイビアがある。人間にはそこに「神的」「悪魔的」がある

シャルマ先生のクラスの頻出用語のひとつ、behaviour があります。
この単語は辞書で引くと、行動・動作・挙動・振舞い・素行などさまざまな日本語が出てくるけれど、今日のトピックの流れでは、マーケティング用語でよく使われる「ビヘイビア」がわたしにはしっくりきます。
状況に対して選ぶ行動、という意味を含んでくる、ただの傾向や癖よりももう一歩行動意識や行動原理に踏み込んだニュアンス。

 


先生は人間とほかの生物の違いを「内面にコンフリクトがあるかないか」と説明されていました。
個人の内面のコンフリクトは人生に影響を与え続けるもので、それを知る行為としてヨガの練習を始めるのです、と教わりました。
コンフリクトのレベルが、人間をつくると。そのあとで、このようにおっしゃいました。

 


 人間のビヘイビアには「神的」「悪魔的」がある

 

 

「神的」「悪魔的」という視点は、善悪の判断基準を安易に採用しがちな心に、すき間を作ってくれます。
自分の行動を正当化したいときに善悪の基準は便利なことも多いけど、その基準を他者から借用していることも多いもの。

悪魔的な善の使いかたもあるなと、この日のノートを読み返しながら、そんなことを考えました。