まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

インド授業の小話

行為と知識。感じているときがチャンス

シャルマ先生の講義ノートに、こんなメモがあり、ここは見るたびに「!」となります。 knowledge - feeling - action | chance action は knowledge を兼ねるけど、その逆はない。100のことは同時に起こる。 「言うのは簡単」というだけでなく「知ってる、と…

呼吸が変わると心が変わる

インドで毎朝プラーナーヤーマの実践、午後に理論や哲学を教わっていたときのこと。午後の哲学の授業の時間に、シャルマ先生による 「プラナヤマの練習で大切なことはなに?」「What is yoga, what is not yoga?」 という問いかけからクラスが始まったことが…

1分の静寂。コントロールとクリーニング

わたしのヨガクラスでもよくやる「1分間サイレンス」の話。インドで授業のはじまり、合間に、先生が Silence と言ったら、すぐ1分間の静寂をつくり、黙想する。すべての先生がやっていたわけではないのですが、わたしが哲学を教わったシャルマ先生は毎回やっ…

エネルギーを与える前提で、背骨を立てて座る

座り方の説明を受けたときのこと。 「体の根っこから喉までのエリアがだいじ。このエリアを大きく使えるように、背骨を立てる」 という話の後に、シャルマ先生がなにげなく、こんなことを話されました。わたしは、これがいまだに心に残っています。 まっすぐ…

そこに「編纂」はあっても「預言」はないヨーガ・スートラ

わたしがインドで受けた哲学の授業は、 初日に インド哲学は「心と体は離れていない」というのがベースだよ パタンジャリって、「ヨーガ・スートラの人」「プレイヤー(祈祷師)の人」「文法家の人」、有名な人が3人いるよ ヨーガ・スートラは何度読んでも発…

ヴェーダーンタでは「感じ方」は教えない

ヴェーダーンタ哲学者シャンカラチャリヤの説明のあとに、シャルマ先生(サーンキヤ・ヨーガが専門)がさらっとコメントしたひとこと。 ヴェーダーンタでは「感じ方」は教えない この言葉のメモに、赤線が引かれていました。当時のわたしが引きました。その…

哲学は生活の中にある

「経験の領域。視覚と意識」というエントリーにも書きましたが、わたしにサーンキヤ哲学を教えてくれたシャルマ先生の言葉の中で everytime new experience というのが好きです。先日、サーンキヤ・カーリカーの第17節を読み、自分なりに咀嚼しながらまた思…

ヒミツのススメ

哲学授業冒頭の雑談で、シャルマ先生がさらりと言ったひとこと。 将来の見込み、希望は秘めておくものだ。人に何をしているか(どんな練習をしているか)内情は話さないものだ。 11世紀以降に栄えたハタ・ヨーガの教典にはこのようなフレーズがよく出てきま…

経験の領域。視覚と意識

アーサナを、ビデオを見ながら練習することについて、シャルマ先生がこんな話をしていました。 ビデオを見ながらやると、経験に限界ができる。 自分自身でやれば、経験に限界がない。 やったことのないアーサナは、映像でも学びになるのでは? と、そういう…

なんでヨーガの修練でシヴァばかり出てくるんですか?

この質問は、わたしがインドで哲学を学んでいた時に抱いた疑問。インド思想を学んでいると、三大神の存在の中でシヴァ神だけがそんなに目立つわけではない。わたしは南インドの右側と北インドへ行ったことがありますが、北インドのリシケシはシヴァ信仰が強…

ブッダはブッディストか?

これは、ひたすら問答を繰り返すスタイルで行なわれる、ある日のヴェーダーンタ哲学授業での問い。アシシ先生が、生徒にこう問いかけました。 「ブッダはブッディストか?」 一瞬あたまが、 ?!☆□@*?! と、なりますね。 ヴェーダーンタお得意の、混同を誘…

monkey mind, bull mind(モンキー・マインド、ブル・マインド)

モンキー・マインドというのは、そのまんま「猿の心」。猿はいまバナナを手にしていても、誰かが新しいバナナをちらつかせると、いま手にあるバナナを手放して新しいものを取る。「すぐに目移りする」「足りていることがわからないこと」を指します。 サーン…

「違い」よりも「共通点」

インドでシャルマ先生から六派哲学の概略を教わっていたときの話です。 授業のあとの生徒の質問はだいたい「○○派の○○と○○派の○○はどう違いますか?」というもの。そのときの先生のなにげないひとことが、ずっと心に残っています。 ぼくは違いではなく共通点…