サーンキヤ・カーリカー 第11節・その注釈で述べられていること
展開済みであってもなくても、根本原質としてのプラクリティは、
- 3種の性質(トリグナ)によって成り立ち
- トリグナと分け隔てのないもので
- 標的・対象になりえるもので
- 一般的で
- 意識がなく
- 生産性がある
そういうものです。
プマーン(自己)は、このような性質をもちませんが、(プラクリティが未展開の場合は)同様でもあります。
<「サーンキヤ・カーリカー」内でのこの節>
プラクリティには意識や精神性がないということを述べています。
本格的にトリグナの説明に入っていく手前の項。第14節でさらに掘り下げられます。
<日本語化の意図メモ>
第3節で「プルシャはプラクリティではなく、展開するものでもありません」と言い切っているためか、プラクリティの説明段階であるこの節ではプルシャという語を用いず、プマーン(puman)という語が使われているところが気になっています。
中村元先生はのちにこれがプルシャと同義だということがわかるので「プルシャ」と訳していますが、ほかの先生の訳を見ると以下のように割れています。
自己(宮元啓一先生)
精神(服部正明先生)
男性原理(=精神)(湯田豊先生)
サンスクリット語⇒英語 の辞書だとあっさり「man」となっており、バガヴァッド・ギーターでも第2章71節に登場していますが、「人」「人類」というニュアンスです。
わたしはサーンキヤ・カーリカーがヨーガ・スートラとは違ってほぼひとりの人物による書き下ろしである点にも注目しているので、ここはあえてプマーンというあまりメジャーではない語をそのまま置いておくことにしました。
最後の部分が矛盾に感じられ、わかりにくい節なので下部で式化しました。
プラクリティは展開してもしなくても、上記の6つの機能を持つ。
その上で
- プルシャは絶対に展開しない。プラクリティは展開したりしなかったりする
プルシャは常に「0」 プラクリティは「0」から「1」になることがある
- プルシャは展開しないので、展開したプラクリティとは反対のものとなる
プルシャ「0」≠ 展開したプラクリティ「1」
プルシャ「0」≒ 未展開プラクリティ「0」
いつも「0」のプルシャと、未展開状態のプラクリティ「0」は似ている
<用語メモ>
トリグナ、3種の+性質(tri+guna)
識別できない、区別できない、見分けがつかない(aviveka / a=not, a+viveka)
標的・対象になりえるもの objective(vishaya)
一般的な、共通の(samanyam)
無意識の、理解していない、感覚のない、生きていない、活動していない(acetanam,achetanam / a=not, a+cetana)
生産性がある、多産の、実りの多い(prasavadharmin)
展開したもの(vyakta)
そのように(tatha)
根本原質としてのプラクリティ(pradhana)
逆の、反対の(viparita, tad+viparitas で「その逆」)
生の実在、人、人類、男、超自己(puman, プマーン)
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