サーンキヤ・カーリカー 第31節・その注釈で述べられていること
道具である器官は、それぞれが刺激を得て、それぞれのはたらきをします。
この道具を動かす原因になりえるのは、プルシャの目的だけです。
道具である器官がほかの何者かにはたらかされることはありません。
<「サーンキャ・カーリカー」内でのこの節>
認識の際の諸器官の関係性に詳しく入っていく前に、この節で「器官はあくまでプルシャの目的のためにはたらく道具なのだ」と念を押します。
のちに第36節で、そのはたらきかたが述べられます。
<日本語化の意図メモ>
たいへん微妙なことを説明していて、これがサーンキヤの精神の定義のわかりにくさでもあります。
他の学派のアートマンにあたるものとしてプルシャがおかれるとき、サーンキヤのプルシャは「ただの主体・自己のありどころ」というくらいあっさりとしています。
この節の後半では「器官がプルシャ以外の者にはたらかされることはない」と明言されます。どの訳を見ても「ほかの者のためにはたらくことはない」ではなく、「ほかの者にはたらかされることはない」とされており、あくまで器官のコントロールの主体はプルシャにあるのだということを語っています。これは、「思わず機能したと感じることであっても、その主体はプルシャにあるのだ」ということになります。
このように自己責任論を成立させているところがサーンキヤの特徴であり、同時代のヨーガの思想の発展と二人三脚のような側面があります。
<用語メモ>
独自の独自の、それぞれが独自の(svam svam ※繰り返すこと自体も含めてこのような表現)
そのように扱われるために、そのように示し出されるために、そのように論じられるために(pratipadya)
相互の、交互の、もう一方と同様に(paraspara)
のぞむ、目的、行動のための刺激・鼓舞・扇動、意図、意向(akuta,akoota)
原因、影響をもたらす(hetu,hetuka)
はたらき、作用(vrtti)
プルシャの目的(purushartha,purusartha)
まさに、~こそ(などの強調)(eva)
なにかと一緒に、なにかとともに(kenacit)
なにものとも一緒ではない、なにものによるものではない(na kenacit / まえに否定の na=not が入る)
行為、結果(karya)
器官(karana)
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