これは、ひたすら問答を繰り返すスタイルで行なわれる、ある日のヴェーダーンタ哲学授業での問い。アシシ先生が、生徒にこう問いかけました。
「ブッダはブッディストか?」
一瞬あたまが、 ?!☆□@*?! と、なりますね。
ヴェーダーンタお得意の、混同を誘って整理していく練習です。
冷静に考えると、ブッダは固有名詞なのでさておき「ブッディスト」というのはどういう状態か。どうやらここに視点を置くとよさそうだ……
と考えているうちに、授業はいきなりエクササイズに入ります。同じような問いを繰り返していきます。
singer と sing の関係は?
lisner と listen の関係は?
creator と creation の関係は?
believe と believer の関係は?
Buddha と Buddhist の関係は、これらと同じではない。
(ニヤリとしながら)
「ブッダはブッディストではないよね」と、先生。
フォロワーがいるからブッダはブッダと呼ばれるのであって、ブッダ自体がブッディストなわけではない。冷静に考えるとわかる混同や混乱は日常の中にたくさんある。まさにこれがマーヤー(幻)であり、モーハー(妄想)のもとでもある。世界があるからわたしがあるのか、わたしがあるから世界があるのか。世界とわたしの境界を意識しているのは、わたし。
ヴェーダーンタ哲学の大きな要素に「多様性を認める」ということがありますが、「関係」にあいまいなイメージで境界をつくることが、ハードルをこしらえる行為そのもの。
先生が「われわれは、このことを超えていかなければいけないよ」といったのは、きっとそういうことだろう。
幸か不幸か。善か悪か。正しいか間違いか。
バガヴァッド・ギーターで「二元論の超越」に挑むアルジュナは、妄想を止める思考のエクササイズをひたすら繰り返します。なんと18章も粘ります。つきあうクリシュナの根性もそうとうなものです。
こころの贅肉も、きっとエクササイズで落とすことができる。