まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

なんでヨーガの修練でシヴァばかり出てくるんですか?

この質問は、わたしがインドで哲学を学んでいた時に抱いた疑問。
インド思想を学んでいると、三大神の存在の中でシヴァ神だけがそんなに目立つわけではない。わたしは南インドの右側と北インドへ行ったことがありますが、北インドのリシケシはシヴァ信仰が強いと感じます。そこでリシケシのシャルマ先生に聞いてみたら、こんな話になりました。英語で学んでいたので、すべてを無理に日本語化せずに書きます。


うちこ:インドはブラフマー、ビシュヌ、シヴァが三大神だよってよく言うのに、なんでヨーガの修練ではシヴァばっかり出てくるんですか?
先 生:まずハタ・ヨーガはプラクティカルなもの、タントラ・ヨーガはミソロジカルに近い。ヴェーダーンタはフィロソフィそのものだという感覚を頭に置いて。ヴェーダーンタでは、神は Just Simbol. ヨーガも基本的に no paticular God*1 なんだけど、ミソロジカルな視点では シヴァ信仰なんだ。
うちこ:シバシャンボー、ナマシバーヤ、トリャムバカム、シヴァサンヒター……
先 生:そうだね。題材にシヴァが多いね。「ヨーガは religious ではないよ、practical だよ」ということを強調する場面があるけれど、それは「ハタ・ヨーガはタントリックなものなのか」という問いを想定していて、シヴァが登場してはいるものの、修練ありきと考える( practical > mythology )という意味でそういう言い方になるんだ。


日本人がインド哲学を学び始めてしばらくすると混乱するのが、まさにこの「mythological(神話学的な側面)」との関わり。シヴァ神は最初のヨギと言われているので、練習方法を記述した古い書物に「ちなみに最古のヨギであるシヴァは○回これを行なった」というような記述が登場します。練習となるととたんにシヴァ神がでてくるのは、こんな理由から。

「心を整える」ことが説かれた国民的聖典「バガヴァッド・ギーター」ではクリシュナ神(=ビシュヌ神)が教えを語り、同時代に「暮 らしを整える」ことが説かれたヒンドゥーの法典「マヌ法典」に従えば、人間はみな世界の創始者ブラフマンによって与えられた命を生きている。
神様にしても三要素(トリグナ)にしても、割り切れない3でバランスする。偶数になると二元論に陥りやすい。わたしはこの仕組み、頭いいなぁと思います。

*1:ヨーガが「no paticular God(特定の人格神などの象徴がない)」というのは、ヨーガ・スートラに登場する神が至上主・主宰神(イー シュワラ)であって、固有名詞を持つ神ではない、ということです。 ここは、さまざまな宗教のなかにある神の定義を学ばないと、ヨーガ特有の感じがつかみにくいと思います。