インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は、日本語でいう「責任」とは少し違うニュアンスです。
ヨーガの授業でシャルマ先生がヴァールミーキの「ラーマーヤナ」は責任について書いているという話をしてくれたことがありました。
そのとき先生がお話されたことのメモとして、こんなフレーズがありました。
- how responsible(責任感)
- how can we(われわれに何ができるか)
- what is possible(何が可能か)
「ラーマーヤナ」では敵には敵の論理があって、悪の世界で喜怒哀楽をあらわにします。その悪役が哀しみにくれる場面の描き方には「ざまあみろ」という視点がまったくなく、とても平坦でありながら、胸が締めつけられる思いを誘う内容です。
神様の話=模範的な善でつじつまがあって悪は成敗されるものということにはなっていません。勧善懲悪の物語を無意識レベルで期待している状態で読むと、これが「responsibility」について書かれた物語だというところに気づくことができません。聖人も王も猿も善人も悪人も、それぞれが自分の「responsibility」をやっている。
この授業のノートを見直してから「ラーマーヤナ」を読み、インドの人が英語で話すときに使う「responsibility」は役割分担を前提とした責任ではなく、もっと広い意味で「ものごとを受容して自己をいかす」という意味なのではないかと理解するようになりました。
(参考)