ヨーガ・スートラの第1章1節~4節の説明する授業の中で、心のはたらきについて、先生が日常の事例で話をしてくれました。
心のはたらきの「はたらき」の部分はサンスクリットでは vrtti. シャルマ先生は英語で behaviour という言い方で話されていました。
心のはたらきはいつも「なにか新しい対象」を求めていて、「新しい対象」がなくなるとネガティブな面が出てくる。記憶は「心のはたらきの反応」だと話されていました。
わたしはこれらの話の中で、ヨーガ・スートラの第1章4節で述べられる「自己との同一視」について、先生が挙げられた事例がとても印象に残っています。
以下を、Identification with behavioues.(心のはたらく対象と自己の同一視)の事例といってお話されていました。
- うちの子が優秀なのは、先生がいいから
- タバコを吸う友人の習慣を嫌うのは、自分と友人を同一視するから
- もし不死の世だったら、死者を敬うこともない
ここではわかりやすくするために「もし不死の世だったら、死者を敬うこともない」を最後に書きましたが、授業ではこれが先に話され、生徒は「???」となるのだけど、ほかの事例と照らし合わせてみていくと、同じこと(心のはたらきのメカニズム)についてを話していることがジワジワわかってくる、そういう流れでした。
同一視=悪い状態、という意味ではなく、同一視=自己が自己をみている状態ではない、ということ。
このあと先生はもうひとつおもしろい事例をあげていました。そのときにその場にいた髪の長いTATOさんという男性を見ながらこんなふうにおっしゃいました。
- TATOの長い髪はすてきね、と誰かが言ったとする。TATOは髪を切るのをやめようと思う。
たしかにこれも同一視なのです。
シャルマ先生の授業は話の順番や構成が示唆に富んでいて、7年後にノートを読み返しながら唸ることがいまでもあります。
授業を受けながら自分が理解力のある生徒であろうとして、「お勉強」と「自己」を同一視して、「勉強をしている自分である状態」に、自分自身が反応し続けようとしていた。これは何年もあとになって気づいたことです。