これはわたしがよく座学で説明する、インド哲学を「学ぶ」ときの大前提の話。
インド哲学を学ぶときは、インド独特のこの価値観を理解しておくと、いろいろな教典の意味も解釈しやすくなります。
日本とインドでは「知恵」の概念に大きな違いがあるのですが、それはどんなことだと思いますか?
回答にトライしてくれた人のお話をきていると、「身体で学ぶことをわかっている人が言語化できないこの感じ。いいプロセスを踏んでいるなぁ」という気持ちになります。
わたしは、さまざまな教えを通して、このように感じています。
- 日本の「知恵」は、アドオン(add on / 足して・積んで)いくもの。
- インドの「知恵」は、脱いで(引いて・削ぎ落として)いくもの。
インド思想はイスラームの「性弱説」と少し似たところがあります。仏教になると「性悪説」ともとれるような厳格さがあります。ヨーガは、「性弱説」と「性悪説」の間のようなバランスをもっているので、こんなにも多くの人を惹きつけるのではないかと思います。
人は弱いから、放っておくとマイナスの感情に引っ張られてしまう。だから、マイナスの連想は常に脱ぎ捨てて「いま」に集中するんだ。ということを言っているものが多いのです。
わたしはシュリ・シュリ・ラビ・シャンカールという人のこの説明が大好きで、よく座学でも日本語化して話しています。
We are polluting our environment everyday,just by not being children.
A child is upset...and the next minute,he(or she) is happy! However,if you are upset,it takes time ─ a week or a month ─ for you to come back to your normal state.If you are upset,it takes such a long time for you to smile again.
(出典:「ENVIROMENT & YOU」(環境とあなた)Sri Sri Ravi Shankar)
先日、公園でよちよち歩きのこどもの行動を見ていたら、道でつまづいて転んで「うぎゃー」と2回ほど叫んだのですが、そのあと数秒沈黙したあと、「うへ、うへ、ぐへへ」と言いながら立ち上がってまた歩き出しました。
転んだときは、手や膝で感じた刺激に反応し、泣いたかのような声をあげるのですが、すぐに気持ちが切り替わっていました。これが少しずつ「人間社会でのふるまいとしての知恵」をつけて、長めに泣いてみたりするようになり、そのうちに「○○のせいで転んだ」と言うようになるのでしょう。
インド思想ではヒンドゥーでもヨーガでも仏教でも「悪いことを想起するのは、あなたのなかで起きたこと」と考えるので、「悪いことを想起するはたらきを抑えることが、学びであり知恵である」ということになります。その方法論として、ヨーガや仏教の修行があります。まったく悪いことを想起することを覚えていない赤んぼうは、「光り輝く知恵をもつ賢者」ということになります。わざわざ自分の世界を人間社会のみに限定するようなことをせず、広い世界、自然の法則のなかで生きている者ととらえます。
「悪いことを想起する仕組み」もよく掘り下げられていて、vasana(潜在記憶)、smrti(記憶されているもの)、samskara(潜在印象)などの、日本語にはない粒度のサンスクリット単語があり、インドの思想には、徹底した「自己責任」の考え方が根底にあります。
日本は学問の歴史で見ると、インドや中国やギリシアの古代文明に比べ、とても新しい国です。文明開花以後は教育システムも近代化とともに「アドオン(add on / 足して・積んで)いく」形式が主流となり、かつて武道や書道や茶道などにあったプラクティカルな学びかたは減る傾向にあります。これを復活させようとする文部省の動きもありますが、「こんなことが起きたら、どうするんだ」とアドオン式で責任の所在を「人間の法」に乗せる人たちの意見も多く、アドオンのスパイラルが起きています。
ヨーガは「自然の法」に人間もあたりまえに乗せていこうとする思想なので、日本でヨーガを学んでいくうえでは、この「知恵」のありようの根底的な違いを理解しておくと学びやすくなります。