まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

神の存在のイメージが "道徳の先生" よりも "友だち" に近いインド

バガヴァッド・ギーターの読書会で、第9章7節・8節で展開される世界の仕組みの語りに対して「"はじめから何も生み出さなければ、こんなややこしい世界にならないのに" という点について、あっさりスルーされていてちょっと悶々とする」という感想を聞かせてくれた方がいらっしゃいました。

とてもわかるなこの感じ! と思ったので過去の自分の思いの変遷を回想しながら、その方にこんな質問をしてみました。

 


 神を、なんかすごく偉い存在だと思っていませんか?

 

 

うなずいておられました。そらそうです。わたしもうなずきます。
が、「なんかすごく偉い」のニュアンスは学んでいくと少しずつ変わっていきます。ギーターの世界観ではとくに。
つづけて、こんな話をしました。

 

日本人は神というと "とにかくなんかすごく偉い" というイメージを持ちますね。なんとなく、自分を戒めたり叱ったりする道徳の先生のような感じもします。
でもインド人たちの神に対するイメージは、見ているとちょっと感じが違うようなんです。もっと、アイドルっぽい存在としてとらえているように見えるのです。偉い先生よりも、"すごくすてきなあのかた" という感じで。
原宿でアイドルのカードが、ばーっと売ってますよね。あれを見てきゃーっとなる人にちょっと近いんですよね…。神~。きゃ~。というような。

 
わたしも数年前はバガヴァッド・ギーターの中のクリシュナの語りにツッコミの要件がその都度たくさん浮かんだのですが、どうやらそうではないという意識が少しずつ優勢になっていきました。天啓の言葉のようなものを求める気持ちのありようが変化していきました。ツッコミながら、またそんなツッコミをする自分にツッコんで…をくりかえすことで、神の存在のイメージが変化していきました。そうなると、あの「神~。きゃ~」がわかる気もしてくるのです。
わたしの場合はたまたま道徳の先生よりも友だちに近づいていく方向へ変わっていきましたが、自分が受けてきた日本の学校教育・家庭環境を鑑みると、完璧な道徳の先生を求める気持ちのほうが多くなるのは自然なこと。


わたしはここが、日本人がインド思想を学ぶ時の最大のハードルかもしれないと思うことがあります。