先日、わたしが主催する読書会の冒頭で、初めてヨガを教わった先生の話をしました。
その先生は流暢な日本語を話す、インドのコルカタからやってきた先生で、客観的な視点から教えてもらう日本の歴史はとても興味深いものでした。(先生は昨年他界されました)
先生は政治や社会情勢についてよくお話をされていて、なかでも日本社会特有のあることについて、事件が起こるたびに「あなたはどう考える?」と生徒に訊いていました。
日本社会特有のあることというのは、
責任能力を問えないという結論に着地する
無差別殺人のような事件
先生は「また犯人の頭がおかしいことにして終わりにした。それでいいと思うか。あなたはどう考える?」と。
わたしはこのことについて、ヨガ教室に通い始めるまで考えることを避けてきました。
なんなら、”頭がおかしい” の定義がはっきりしてくることで、長期的に見たら安全性が高くなるのではないかとすら、ぼんやり思っていました。深く考えもせずに、犯人を別の生物のように見ていました。
この最初のヨガの先生が、わたしのそのような思考に気づかせてくれました。
その後わたしはインドへ行き、別の学校のティーチャー・トレーニングを受けました。
そこでは哲学のディスカッション授業が毎日あり、数ヶ月を過ごすうちに自己についてさらに考えるようになりました。
それまでのわたしのヨガは、なるべく医者にかからず健康でいるに越したことはない、強い身体で年齢を重ねていこうという意識で、心の仕組みのほうへはそんなに関心が向いていませんでした。
それまでずっと、ヨガの練習の後の心身の清々しさだけを理由にヨガを続けることができていました。
ヨガの心理学をインドで学んだのは、最初の先生のところでヨガを習い始めてから8年後のことでしたが、事件について個人の考えを問う先生から、ヨガを始めた時点で種を撒かれていました。
この話は、ずっと忘れていたことでした。
先日わたしが行った読書会の課題図書が「事件」を取り扱うものだったので、開催前日に急に思い出し、冒頭でこの話をしました。