まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

インド人の日本語がたまにかわいいのは、ぶりっこではない

これはマントラの音について説明するときに、たとえのように話すトピックです。
サンスクリット語の音は日本語よりも子音が多く豊穣なのですが、「ざじずぜぞ」がありません。
外国の人にとっては強い「ざじずぜぞ」の連続がむずかしすぎるというかたもいます。カナダ人の友人で「つつじがおか」がいつもいえないと言うひとがいました。


日本語がペラペラのかたでも、日本人と同じように「ございます」というのは至難で、「ごじゃいます」に寄ります。
「ごじゃます」だともっとラクなのでしょう。さらに「ごにゃます」に近い「ごじゃます」であればもっとラク。というふうに、音の接続の組合せには母国語でなじんだ口の感覚の使い方が大きく影響します。


もともと日常的に発音することを想定していない音は、とてもむずかしい。日本人がサンスクリット語マントラを覚えていくときは、舌と唇のとても微細な連動規則を覚えていくことになるので、むずかしいアーサナを全身の感覚で覚えていくときとまったく同じです。
日本語は子音が少ないので(外国人の立場だと喋るだけなら覚えやすい)、サンスクリット語のような繊細な発音を覚えていくには繰り返し練習するしかありません。
日本語はラウドしやすいですが、サンスクリット語はラウドできない、おのずと平穏さへを導くような音の連続であると感じます。

なので

 

 あーりがとごじゃます

 

でも、わりと全力。
それが、発音しやすいのです。日本人の英語がカクカクしているのと同じです。
同じマントラを何百回と唱えていても、わたしはまだすべてうまく言えたと思う回がありません。

5つのM(Panca Makara)の「Maithuna(性交)」

タントラ・ヨーガへの誤解を生むものとされている5つのM(Panca Makara)。この「Maithuna(性交)」についてはハタ・ヨーガ・プラディー・ピカー第3章83節のように理解のされかたとしては誤解を生みやすいものだという話になり、シャルマ先生がハタ・ヨーガの理解としてはこうあるものだという説明をしてくれたことがありました。(授業は英語だったので日本語訳はわたしによる訳です)

 イダーとピンガラーの出会いは一つの身体のなかにある。
 他の身体と交わることではない。

 

「5つのM」の冒頭でも書きましたが、わたしの場合は真言宗理趣経への誤解について日本の歴史の事例を少し知っていたので、ハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーにもあるそのような要素とイメージを重ねながら説明を聞いていたのですが、英語訳のハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーには第3章83節以降のヴァジローリーについての記述の一部がカットされて出版されているものもあり、わたしの感覚よりも刺激の強いものとして受けとられているように見えました。

 

 

5つのMと魚の話

5つのM(Panca Makara)の話そのものは、インド思想のヨーガに関わるトピックの中では、"誤解のもとのひとつ" として形で扱われているもの。これについて、シャルマ先生が少しだけ雑談で話してくれたことがありました。どんな話しかたをするのかな…と、気にしながら聞きました。
わたしは日本の仏教、密教、そしてそのなかに真言立川流という変わった宗派もあったという歴史を本で読んだことをきっかけに、インドやチベット密教の歴史にあったとされる左道密教とよばれたものを「そういうものも、あったのだな」と認識しており、知識の免疫はあったので驚かなかったのですが、現代のスタイリッシュなヨーガから瞑想・哲学へと関心を寄せていく人にはやはり驚かれる話題のようです。


「5つのM」というのは、5つのMではじまるものを祀って行う儀式のこと。特異な宗派で行われていたと伝えられるものです。
パンチャが数字の5。Makaraは M+karaで「Mの字、Mの音」という意味。

  • Madiya(アルコール)
  • Mamsa(肉)
  • Matsuya(魚)
  • Maithuna(性交)
  • Mudra(印。「穀物」を指す理解が多いようです)

この「Maithuna(性交)」が特に誤解のもととされており、ヨーガの教典訳でも英語の本はここに結びつく内容の節をカットして出版されているものもあります。

 
先生は5つのMのうち「魚(Matsuya)」についておもしろい話をしてくれました。マツヤアーサナマツヤです。絵を描きながら以下の話をしてくださいました。(授業は英語だったので日本語訳はわたしによる訳です)

ガンジス川(ガンガー)とヤムナー川
それぞれの川を魚が下ってきて、出会う場所があるんだ

先生がどこかで学んだことを、思い出すようにつぶやくように話してくれました。


インド思想には、二つの流れが「合わさる」ことに神聖さを見るような、そのような考えかたがあるように見えることがよくあります。
アルコールと肉と穀物については「豊穣」以外の理由では祀るのに思いつくものがありませんが、魚のこのお話はまるで男女の運命の出会いのようで、少しドラマチックに聞こえます。こんなふうに惹きつけられる要素があるからこそ、さまざまな解釈が生まれてゆくのかもしれません。