まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

 こんにちは。わたしの名前は「うちこ」と申します。

インターネットの中のなんでも屋さんのような仕事をしながら、東京でヨガクラスを開催しています。

 

 ヨーガは一般的に「ヨガ」として、日本でもたくさんの人に、主にアーサナ(エクササイズのような、よくイメージするヨガ)として愛好されています。わたしもこれは気持ちがよくて、大好きです。よくひっくりかえったり、ぐにゃぐにゃ曲がったりしています。

 

 インド思想にはたくさんの哲学の学派があり、ヨーガもそのひとつです。エクササイズだけでない範囲まで練習の幅を広げると、ポーズをとるアーサナは「瞑想(冥想)の準備運動」という段階に設定されています。インド哲学はおおむねどの学派も「解脱」を目標とし、基本的に輪廻転生を信じる国なので、「また生れてきてこんなにしんどい思いをするのはまっぴらごめんだ」という考え方です。広い意味でとらえるとストレス解消も解脱への道の一部ではありますが、ただ解消するだけでなく、ストレスを感じるこころの機能まで科学的に追求しています。

 

 一般的にヨーガの哲学は「ヨーガ・スートラ」を聖典とし、その著者であるパタンジャリ(個人および学者たち)の教えに従って学び、その後にハタ・ヨーガの教典を学んでいくというスタイルが主流のようです。わたしもそのように学びを進めていったのですが、その間にいくつか、決定的に「自分で咀嚼し、クリアにしなければならないポイント」があることに気がつきました。

それは、主に以下の3つのことでした。

  1. ヨーガと仏教の思想はとても似ていて、同じことばが使われることが多いけれど、微妙に意味が違うことがある。日本人には、和訳の漢字二文字のイメージに引っ張られやすい。
  2. ヨーガのすばらしさを賞賛する方向が2種類ある。(サーンキャ・ヨーガとヴェーダーンタ・ヨーガ)
  3. パタンジャリのヨーガ思想とハタ・ヨーガはイコールではない。

 

 ヨーガの教えは、哲学もアーサナ同様に「数をこなす」ことが有効ですが、ひとつだけ、とてもハードルが高いと思うことがあります。インド思想は、日本語の感覚で理解することが、とてもむずかしいのです。数学的な脳みその使いどころが多いので、理解を深めることをむずかしく感じる人も多いようです。

 

 よくあるのは、途中まで考えてはみるのだけど、「よくわからない」となり、「でもヨーガって "繋ぐ" という意味よね、それはヨガをやっていると感覚的にわかる。わかるわかる」という感覚的な結論づけだけで、「具体的に考えること」をやめてしまうこと。

とはいえ、なんだかまどろっこしいのも事実です。書物を通じてヒントを与えてくれる学者さんや教授の方々の訳を読み比べてみましたが、日本語化した文章自体がどうにもカタくて難解です。専門性と正確さが求められる世界では、どうしてもそうなってしまうようです。

 

 英語からのほうが意外と日本語訳よりも現代的な語感で入ってくることもあります。いまは日本語の中に外来語がたくさん入ってきて、とくにビジネス用語やIT用語の中には一般の人も感覚的に使う英語が増えてきました。

たとえば、「プロセス」「ポテンシャル」のような語はそのままカタカナでスッと入ってきます。「結果」と訳されたものでも、「result」ではなく「effect」であれば、「決定的でくつがえらない結果」ではなく「影響の現われた、現象としての結果」というニュアンスでの理解になります。

 

 わたしは英語はトラベル英会話程度しか話せませんが、これまで仕事を通じて情報通信業のビジネス用語を日常的に使ってきたので、「コンテント」「アナライズ」のような単語は英語のままのほうが体感的に身近です。ここでは、その感覚のまま書いていきます。

おもにこんな内容を綴っていきます。

 

  1. 読書会や座学講座(ヨガ漫談)の話題
  2. インドで受けた哲学授業ノートからの話題
  3. 古典書物の内容紹介

 

 内容は一度公開したものでも、学びが深まるごとに更新し、リンクを改善したりチューニングを随時行なっていきいます。

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