まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ill-willの感情が論外視されがちである、という認識

夏目漱石の小説を題材に、インド思想の心理学視点で「心」を掘り下げていく時間でお話したこと。ここでは過去にインド人のヨガの先生から過去に聞いた話を含めて書き起こします。
この話をしたのは、「坊つちゃん」という小説に登場する主人公のさまざまな「怒り」を分解するテーマで話をする冒頭でのアイス・ブレイク演習。日本語で共有される「怒り」の種類にはない、別の概念の話をしました。
サンスクリット語で「怒り」を示す語では、バガヴァッド・ギーターにもよく出てくる「クローダ」などがありますが、それ以外の語をテキストで紹介しながら話しました。

これはいつもエクササイズのようにやるのですが、ほかの言語の世界に触れるまえに、わたしたちの日常にある怒りの種類の単語をまず引っ張りだします。


このように。

 
これらはまだ、なんとかなりそうな怒り。
でも怒りには、なんとかならなくなってしまいそうな領域に踏み込んだものもあります。

日本では、凶悪犯罪が起こると「責任能力」の有無を確認する、そういう流れをニュースで見ます。
これは、日本に長年住むインド人のヨガ講師のかたがすごく不思議がっていること。いわれてみてたしかにそう思ったのですが、日本では「そういう感情」を「異常」という前提にして世の中が回っているところがあります。
日本語は心のはたらきかたをあらわす動詞がとても少ないので、知らない感情が異常と認定されやすいところがある。わたしはサンスクリット語にあまりにも多くの語があることを知ってから、そんなふうに考えるようになりました。
たとえば怒りでも

 

  • ヴィアーパーパーダナ(vyapapadana)=犯意(殺意に到る級)
  • イラス(iras)=犯意、悪意(上のよりも少しマイルド)
  • ダウルジャンニャ(daurjanya)=悪行をする意向(さらにマイルド)


というふうに、犯罪に結びつく過程に近い怒りを示す語があって、英語でこれは「ill-will」と訳されます。英語のほうがわかりやすい感じがします。
この「ill-will」のニュアンスを含んだ恨みの感情に到るまでの怒りのグラデーションは、日本では裁判所でしか分解されないというか、あまり語られることがありません。ミステリー小説の中にはたくさんあります。


以下のリストアップからもわかるのですが(同じ写真をもう一度)

 

日本語の怒りの単語は、平穏・友好的な関係を乱すときに発生する細かな怒りの表現バリエーションが豊富。わりと粘度の低い、こじれすぎるまえに激するものが多い。
他国の言葉と比較していくと、自分たちが普段どんな価値観で人間の感情の善悪を定義しているかが見えてくることがあるのですが、日本は宗教観が薄いためか「悪魔的」な恨みの感情については、少し理解が遅れているところがあるように思います。

「光り輝く」にもいろいろありまして

これは、たまに背景の思想も含めながら説明をする拡大版・ハタヨーガのクラスで話したこと。
その内容に、解説を加えて書きます。その日は呼吸法のカパーラ・バーティをやりました。
この「バーティ」には光り輝くという意味がありますが、あまり端的に話してしまうと、強い全能感を渇望した人にとっては食いつきポイントになりやすい。わたしはヨガのこういう側面をリスクとして捉えているので、それなりに説明を加えられる流れのときだけ、クラスの構成に入れています。

 

わりとゆったり説明するクラスでは、「○○にも、いろいろありまして」というトーンでお話しています。
今日はそのなかでも「光る」「輝く」のこと。

日本語でも、明るいとか、輝いているとか、パッと華やぐとか、ぎらついているとか、聡明だとか、そういうふうに人の状態を表現することがありますが、それと似ています。
たとえば美容に関する表現では「内面から輝く」「内側から輝く」のような表現をよく目にします。自己を知り、知性も兼ね備えた輝き。この場合、ヨーガ周辺の教典によく出てくる語では「プラカーシャ(prakasha)」が似ています。
カパーラ・バーティという、横隔膜を使った呼吸法の名前になっているバーティも「輝く」なのですが、この場合はカパーラが頭蓋骨をさしているので、語の羅列では頭蓋骨が輝くという訳になります。練習を通じて感じるものとしては、頭に酸素が回って頭がはたらきだして、すっきりと頭をはたらかせるエンジンがかかる。鏡を拭いて曇りが取れて光っていく感じと似ています。

 

このほかに、シヴァ信仰色の強いハタ・ヨーガなど神話学的な要素の絡むものには、「ヴィラサナ(vilasana)」という語が出てきたりします。これもまた輝きです。
これは神の輝きなので、もうまぶしいほど。フラッシュのようです。ぎらっぎらの金ぴかの、豊臣秀吉が求めた力に似た、異様な活動力を含んだああいうものを想起させます。

 
このように、微妙にニュアンスが違うのと、やはりインドはインドの神話学があるので、そことも連動している。日本人が日本人に伝えるヨーガのクラスでは、「"光り輝く" にも、いろいろありまして」という話のできる場でないと、わたしはうまく話すことができなません。

 

 パッとしないということはない。

 でも、他者の目を刺激するほどぎらついてもいない。

 

こういう、安定したほんのりとした輝きが絶えない状態を、わたしは現実的な着地点として、理想の状態ととらえています。
自ら輝かず、ただひたすらに「照らしてくれ!」という印象を周囲に与えてしまう「パッとしないのに、ぎらついている状態」を脱するために、まずは自分の頭の中の曇りをとっていく。そこから、内面からの輝きへ進んでいく。

光り輝くというのは、すごく時間のかかることだと思っています。

訳のトーンの差を見る。バガヴァッド・ギーター9章23節の「avidhi purvakam」

バガヴァッド・ギーターを読む会の関西開催で話した、ギーターの日本語訳のおもしろさについて。

ギーターをいろいろな訳で読んでいると、こういうのは訳しにくいのだろうなと思うところがいくつもあります。
9章23節の最後「avidhi purvakam」の部分は、学者の先生の訳とそれ以外の訳のニュアンスが少し割れていて、興味深いです。
「purvakam」は前の語を引いて「~によって」とか「~で」という意味です。according to 、です。
そしてそれがかかってくる「avidhi」は「a(否定)+vidhi」。「vidhi」は「正規ルール」「正しいやりかた」「儀式」「メソッド」というような意味です。
これが辞書を引くとおもしろいところなのですが「avidhi」で辞書を引くと、


 通常じゃない → 異常 → まともでない


というふうに、少し展開の進んだ意味を含んでいきます。


この部分の訳を読み比べると、岩波書店講談社中央公論社から出版されるような学者の先生の訳は「正規ルール」の反対の意味に近いニュアンスになっています。
(該当の箇所を太字にしています)

他の神々に帰依する人々も、信を抱き祀るに、また、クンティー妃の王子よ、作法に適わぬながら、ただに、われをば祀るなり。
鎧淳 訳


他の神格を信奉し、信仰を具えて祭る者、彼らもまた、クンティー夫人の子よ、〔実は〕われをこそ祭るなれ、たとい儀軌(祭式の規定)に適わずとはいえ。
辻直四郎 訳


信仰をそなえ、他の神格を供養する(祀る)信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。
上村勝彦 訳


作法、儀式、教えというような要素を踏まえた訳になっています。
インド思想は、祭祀のありかたがそのまま思想を分けるようなところがあるので、この部分を抜かないように配慮するのが学者的ともいえます。


いっぽう、それ以外の訳者の日本語訳は「正しい方法ではない」というふうに、打ち消し方がシンプルです。

アルジュナよ、信仰心を持ち、他の神々を礼拝する信者達も、正しい方法ではないが、私を礼拝している。
熊澤教眞 訳

 

また深い信仰心をもって他の神々を拝む人々もいるが、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 実は彼らもまた、正しい方法ではないのだが、やはり私を拝んでいることにな るのである。
日本ヴェーダーンタ協会


クンティーの息子よ 他の神々の信者で
真心こめて清らかな気持で信仰する者たちは
実はわたしを拝んでいるのである
正しい方法ではないけれども ──
田中嫺玉 訳

 
ここでこれらの「打ち消し方がシンプル」なバージョンを読み比べると、田中嫺玉さんの訳の倒置の効果にうなります。
「真心こめて清らかな気持で信仰する」は少し情緒的に強調しすぎかなとも思いつつ、最後が倒置になったようなまとまりと掛け合わせると、総合的に響きかたに全体性が出てくる。
サンスクリット語でこの部分(avidhi purvakam)は一番最後になっているので、田中嫺玉さんの訳のようにするのがそのままの置きかたです。ですが、その前の行は順番どおりではありません。日本語にしたときに「avidhi purvakam」の部分が倒置の効果を最大限に発揮されるよう、それ以前の三行が構成されているように見えます。


ちょっと細かすぎる読みかたかも知れませんが、わたしはこういうところがギーターのおもしろさでもあると感じています。