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まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 18章47節

ビンゴでギーター

この節は神戸で3名、東京で1名のかたが気になった節として選んでいます。
前半が3章35節とまったく同じなので、こちらを選んでいる時点で、決め手としては「天性によって定められた義務」「罪の意識」のあたりにおのずとフォーカスがあたります。4名のうち3名は「仕事」についての振り返りでしたので、後半にまとめます。
それぞれのかたが別の訳を読まれていたので、訳とそれぞれの理由を順に書きます。

 

自己の義務を完全には遂行できなくとも、他人の義務を完全に遂行するよりはすぐれている。
自己の特性によって定められた義務をおこなう者が罪を犯すことはない。


<同訳者の新版訳>
自己の任務を実行することは、それが不完全であっても、他人の任務をうまく実行するよりも優れている。自己の本性によって定められた行動は罪にならない。
熊澤教眞 訳

(選定理由)

  • 以前からギーターは読んでおり、身内に裁判を起こしたときのことを思い出しました。随分経ちましたが、わたしは理にかなっていたのかと今回初めて振り返ってみました。(神戸に参加・Nさん)

 ⇒詳細はお聞きしていないのですが、自分がなにかを実行しようとする=他者にとってそれが不利益となる場合に、「罪の意識」に訴えかけるようなやりかたは、たとえば年長者を敬う儒教的な認識を共有していれば、年長者にとってそれはひとつの「戦術」になりえそうです。そんなことを想像しながらお話をうかがっていたのですが、いずれの立場であっても、行為のすべてに罪の意識はつきものなのかもしれません。

このかたは旧版の訳を読まれていましたが、新版と読み比べると、「自己の特性によって定められた義務をおこなう者が罪を犯すことはない。」という訳は、罪になるかどうかを他者が決める社会(=わたしたちが生活をする社会)では、ちょっと強すぎるかもしれません。

 

 

以下は、みなさんまったく違う立場で仕事の話をされていましたが、どれも「ある…。わかるなぁ、この感じ」というものでした。

他者の職業を完全に行うよりも、自分の職業を不完全に行う方が優れている。生来の性質に応じて規定された義務は決して罪も報いの影響を受けない。

A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ

(選定理由)

  • 「長年勤めていた仕事を天職だと思っていた(思うようにしていた)けど、実は、そうじゃないんじゃいか? じゃあ、私の天職ってなによ?」と思う事があり、最後の一文に救われるような気がしました。3章35節もほぼ同じ内容ですが、最後の一文の違いでこちらを選びました。わたしは二つの仕事をしていて、ひとつは一般的に王道のように思われる企業勤め、もうひとつはヨガの仕事です。王道のように思われるほうの仕事では広い意味では動物を殺すことも含まれます、でもヨガの世界ではアヒムサーです。これらの二つのことをずっと考えています。(神戸に参加・Mさん)

  ⇒「動物を殺すことも含まれる」の箇所は、フード産業でもアパレル産業でもそうなので、ヨガをはじめてから折り合いに迷う人の多いところであること、よくわかります。インドにはアルタ(実利)・ダルマ(法)・カーマ(欲)という3つの人生の目的がモクシャ(解脱)と並列で定義されていて、義務に呼応する実利についてはダブル・スタンダードでバランスを取っているようなところがあります。

ヨガ周辺のことだけを学んでいると、このような葛藤におちいると思うのですが、ここでも「罪も報いの影響を受けない」というフレーズが響いてきます。わたしたちのなかに埋め込まれた「罪の意識」のチップのようなものは、これは一体なんなのでしょう。

 

 

自分の義務が完全にできなくても
他人の義務を完全に行うより善い
天性によって定められた仕事をしていれば
人は罪を犯さないでいられる
田中嫺玉 訳

(選定理由)

  • 昨年末に仕事を辞めたこともあって、ささります。とくに「他人の義務を完全に行うより善い」のところが。わたしはここがとにかくわからない職場環境にいました。自分の義務もやりながら、他人の義務をかなりやっている気がしていました。でも会社で働いていると、そこのところはグレーになりがちです。他人のことじゃないの? と思っていてもやらなければならないという思い込みでがんばっていました。(東京に参加・Kさん)

  ⇒「割に合わない」という気持ちが起こるとき、その「割り」というのの全体母数はどこにあるのだろう…、ということをわたしはよく考えるのですが、このときも個人を取り巻く状況を図にしてお話しました。

 

 

たとえ自分の義務(しごと)が完全にできなくても、他人の義務(しごと)を完全に行うよりは善く、天性によって定められた義務(しごと)を遂行していれば、人は決して罪を犯すことはない。
日本ヴェーダーンタ協会 訳

(選定理由)

  • 義務は義務でも「定め」られた「義務」って。当時は仕事に対してもやもやしていたので、インド的義務はともかく、自分の状況に置き換えるなら定められてりゃきっちりやるから、定められてる「義務」というのを知りたいわいと思ってました。設定以前のところでかみついてた感じです。(東京に参加・Iさん)

  ⇒このIさんの「かみついてた」という自己認識があるところ、その振り返りは「定められてりゃ、きっちりやるよ」と、安易に声高に主張することへの反省も含まれているように見え、尊敬します。

 


この節は自己肯定に利用したい人には危険な節に見えますが、他者から見ても頑張ってきたとしか言いようのない人には届いたほうがよい節とも思え、たいへんメッセージ力があります。

あわせて読みたい


▼「定められた義務」については、日本人がギーターを読むとひっかかるポイントの定番です

 

ビンゴでギーター 3章8節

ビンゴでギーター

この3章8節は神戸と東京でビンゴしました。
それぞれわりと長くヨガを練習しているかたですが、こんな理由をお話してくれました。
神戸参加のかたは上村勝彦訳、東京参加のかたは スワミ・ヴィラジェシュワラ著/岡太直 訳 を読んでのコメントです。

 

  • ここ数年意識していることが書かれていました。
    ヨガと出会って、行為がわーっと続いて…。アサナを練習したり、本を読んだり、講義を受けたりして、「動」ばかりが続きました。
    でも途中から、ものすごく深く考えるようになってしまって…。「考え」が常にあって、「行為」があって。
    それがここ近年、釣り合わなくなってきました。「この区別はやめよう」と思い、行為に専念していくと、また新しい考えが入ってくるようになりました。
    それによって今はいい感じのリズムがつくれていて、「行為が大切だなぁ」と思います。(神戸に参加・Mさん)
  • 普段仕事をする時、特に単純労働・肉体労働だけで知的作業の伴わないような時に「これは稼げる筋トレ」と自分に言い聞かせています。
    クレームとか何かトラブルのあった時、すごく嫌な気持ちになるのですが
    「これは心の筋トレ。これで私の心は益々鍛えらえていく!」と、気合を入れます。さらにこのような自分をもう一人の自分が「けなげな奴だな~」といたわっています。(東京に参加・Oさん)

 

この節はなにかに取り組むとき、その「対象」と続いていく関係のなかで、自己を思うと沁みる節です。
対象との関係がある以上は身体があるわけで、その身体に行為させたりさせなかったりするものの存在・対象に優劣をつけようとする存在が大きくなったり小さくなったりする。Mさんが練習の過程を振り返っていくときのコメントは読書会の録音から書き起こしていますが、ひとことずつ、つぶやくように刻まれる回想の言葉に、わたしも深く細かく何度もうなずきました。

 

この3章8節は、訳のニュアンスにそんなに割れるところが生じる節ではありません。上村勝彦訳、田中嫺玉訳の訳文と、Oさんが読まれていたスワミ・ヴィラジェシュワラ著・岡太直訳の訳文を読んでみましょう。

あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。
あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう。
上村勝彦 訳

 

定められた義務を仕遂げる方が
仕事をしないより はるかに善い
働かなければ 自分の肉体を
維持することさえできないだろう
田中嫺玉 訳

 

汝に定められた義務を果たせ。というのも行為は無為よりも優れているからである。
もしも汝が何も行わないならば、身体を維持することすらできぬはずである。
スワミ・ヴィラジェシュワラ著/岡太直 訳

上記の訳は一節で完結していますが、日本ヴェーダーンタ協会版と辻直四郎訳は、前後の節とあわせて理由(輪廻する)⇒ 結論(だから定められた行為をやれ)という流れになっていて、語り口調に特徴をもたせた訳になっています。

故に、君は定められた義務を成し遂げるがよい。仕事をせぬよりは、する方がはるかに善いのだ。第一、人は働かなければ自分の肉体を維持することさえできぬであろうが。(3章8節)


仕事を至高者への供物とせねば、その仕事が人を物質界(このよ)に縛りつけてしまう。故に、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 仕事の成果を至高者に捧げ、ただひたすらに活動するがいい。(3章9節)
日本ヴェーダーンタ協会版

 「できぬであろうが」と鼓舞します。この鼓舞のトーンそのものから行為のありかたの重要な部分がありありと伝わってきます。

 

 汝は義務的行作(niyatam karma)をなせ。何となれば、行作は無作(akarman)より勝れたればなり。

汝無作たらんか、その肉体の維持すら成就せざるべし。(3章8節)


この世は祭祀のための行為を除く行作の繋縛(けいばく)を受く。
執着を離れて、このための行作(祭祀)をなせ、クンティー夫人の子よ。(3章9節)
辻直四郎 訳

「義務的行作」という言葉を造語のようにすることで、ひとつの行為のありかたが伝わる。3章9節も、「もうこれは祭祀なのだと思って "いいからやれ"」というメッセージがシンプルに訳されています。

 

この節の「鼓舞のしかた」はとても強いトーンで、考えてばかりで行為をしない「無為への執着」に「見てるぞ」というクリシュナの容赦のなさが、2章47節と少し似ています。

3章8節のほうが、行為している自己に酔いたいときには心地よく響いてしまうので、悪用されやすそうです。

ギーターの暗唱のようなことが起きた

うちこの座学から

バガヴァッド・ギーターを読む会の関西開催で、こんなことがありました。

参加者の感想のなかに、クリシュナがまるで「ジャイアン・リサイタルのようだ」「なんでこんなにパーティー・ピーポーっぽいのか」という率直なコメントがあり、わたしもそんなことを思っていたな…と回想しました。

そのことをなんとなく口にしたら、暗唱みたいになりました。

 

わたし:ジャイアンか!」というツッコミを入れたくなる感じ、すごくよくわかります。わたしははじめに読んだとき、この神様はアントニオ猪木みたいだなぁ… と思いました。

参加者:ああああああ~

わたし:元気があれば…

参加者:なんでもできる

わたし:迷わず行けよ…

参加者:行けばわかるさ

 

このときは「今日はたまたまプロレスが好きの人が集まっていたのだろうか」と思ったのですが、このフレーズはプロレスに関係なくすぐ出てくる人が多いようです。

よく考えたらクリシュナの言葉は「戦いのための鼓舞」だから、アントニオ猪木さんの言葉とも重なるわけなんですよね。

それにしても、この暗唱コール&レスポンスっぷりは、まるでインド人にとってのギーターのよう。日本語の詩の力(この場合はポエムでなくリリック)に驚きました。