まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

講座のおしらせ「現代小説読書会『すべて真夜中の恋人たち』をインド哲学視点で読む会」(東京開催)

これまで小説を使った読書会では夏目漱石の「坊つちゃん」「虞美人草」「三四郎」「それから」「坑夫」「こころ」で読書会を開催してきましたが、今回は川上未映子さんの現代小説「すべて真夜中の恋人たち」で開催します。


この作品は恋愛小説という扱いになることがほとんどですが、実際に読むと「他人とかかわりながら生活を立てていく自己」「外面的理由・内面的理由に混乱する自己」「記憶と妄想にとらわれる自己」が緻密に描かれており、ストーリー以上にさまざまな意識を刺激される美しい文章が続きます。そしてそのなかで投げかけられる、義務とは…信頼とは…専心とは…、というテーマはヨーガの学びで浮かび上がる問いと重なるものばかり。ふだんヨガの練習をされている人には、その身体表現にもハッとする部分が多々あるかと思います。そしてこの小説は冬に誰かと語り合いたくなる、そんな物語でもあります。


これまで夏目漱石読書会、バガヴァッド・ギーター読書会に参加されたことのある方はもちろん、現代社会のあれこれのなかであらためて自身の価値観を見つけてみたい人や、同時代を生きる人たちと意見の交換をしてみたいかたは、どうぞモジモジせずご参加ください。初参加しやすい題材での読書会です。
ひとりでのぞき込むのは少し躊躇してしまう自我の海へ、みんなでそっと近づいてみる、そんな時間です。


当日はみなさんから事前にいただく宿題への回答をもとに、ほかのかたと意識を共有していくテキストを作成し、それをもとに進めていきます。

 

  • 開催日時:2018年2月11日(日)10時40分~13時20分
  • 開催会場:Plants cafe地下鉄東西線大江戸線門前仲町」駅から徒歩7分
  • 参加費:3500円。当日会場でお支払いください。
  • 持ちもの:筆記用具、「すべて真夜中の恋人たち」
  • 事前準備:お申し込みをいただいた方へ、簡単な宿題をメールでお出ししますので、2月4日(日)24時までに返信をください。意見や主張を問うものではなく、印象に残った対話や部分、登場人部をおたずねする宿題です。
  • 申し込みはこちらからどうぞ(今回は会場の都合上、女性のみの参加受付となります)

 

 

小説を使った読書会形式での講座については、こちらに開催理由を書いています。今回は川上未映子さんの小説で開催しますが、題材にする理由の年表以外の部分はほぼ同じ理由です。

 

▼以下は、事前に読むかの判断はお任せします。わたしが何度も読んでいるこの小説の感想です。

 

▼以下も、事前に読むかの判断はお任せします。東京で勤労感謝の日のイベントとして、プライベート仕様で開催した読書会のログです。

 

講座のおしらせ「バガヴァッド・ギーターをうなりながらタテノリで読む会」東京

読書会のご案内です。

ひとりで読むよりも、同じ言語で同時代を生きる他人と読むことで、ギーターがグッと身近になる読書会です。

日本はインドと違ってカーストやヴァルナのような身分の仕切りは少ないはずなのに、日常生活をおくるためにはムードに合わせて空気を読んだり、優遇されるためのロビー活動的行動が常に求められるのが実状。根っこのところはどの社会も似ています。

そんなわれわれにとって、理不尽と感じる状況の中でも己を保つ知恵がてんこ盛りの「バガヴァッド・ギーター」は、読んでびっくりの詩集(あえて詩集とここでは書きます)。実際読んでみると、ガンディーが心の支えにしていたというのも至極納得の聖典です。

 

  • 開催日時:2018年1月28日(日) 12時10分~15時(会場は12時オープン)
  • 会場:世田谷ものづくり学校 (三軒茶屋駅 or 池尻大橋駅
  • 持ちもの:筆記用具、バガヴァッド・ギーター(どこの出版社のどの訳でもよいです)
  • 事前準備:事前にギーターを読み、刺さった or グッときた節をひとつ選び、1月21日(日)の24時までに簡単な理由を添えてメールをください。選曲リクエスト感覚でかまいません。(※初参加のかたは宿題提出なしでも参加いただけますが、なんか出したほうが楽しいです)
  • 申し込み:こちらからどうぞ

 

▼対話型講座についての、ちょっとした思いはこちら

 

▼バガヴァッド・ギーター 本のこと

 

▼過去に参加してくださったかたのブログ

ビンゴでギーター 3章13節

この3章13節は東京でビンゴしました。
お二人とも上村勝彦訳を読んでいらっしゃり、それぞれ理由を聞かせてくださいました。

  • 食欲万歳、常に力いっぱい食べるのを楽しみとする毎日なので、この節が気になりました。註釈を読んで「結果に執着しない行為なんて、そんな無茶な~」とも思いました。(東京・Iさん)
  • 蓄財という発想のない働き方をしていた人のことを思い出しました。亡くなる直前まで楽しそうにしていたので、この節が腑に落ちました。(東京・Mさん)

Iさんは自身の行為を省みることになり、Mさんは罪悪から解放されていったであろう知人のことを思ったそうです。


この節は註釈でマヌ法典との関連性に触れられているので、並べてみます。

祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
バガヴァッド・ギーター 上村勝彦訳

 


【家長の食事】
116:夫婦は、ブラーフマナ(の特別客)、家族、扶養人が食べ終わってから、残り物を食すべし。
117:家長は、神々、リシ、人間、祖霊、家の守護神を敬って後に(すなわち五大祭儀を終えてから)(彼らに与えられた食べ物の)残りを食すべし。
118:自分のために料理する者はまさしく罪を食べる。なぜならば、祭儀の残り物こそ善き人々の食べ物であると規定されているからである。
マヌ法典 3章116~118節 渡瀬信之 訳

 
マヌ法典の3章118節と連動しています。
ポイントは「調理する・料理する」のところにあります。行為にフォーカスがあてられています。
バガヴァッド・ギーターの3章13節は、前半に善の行為・後半に悪の行為というようにわかりやすい対比になっていて、悪のほうの行為の目的は少し訳によって割れます。上村勝彦訳では「自分のためにのみ」となっています。
学者のかたの訳は一様に、ここに感覚の楽しみや欲の要素を入れていません。

祭祀の残饌(供物の残余)を食らう善人は、一切の罪悪より解放せらる。されど自己のためにのみ調理する悪人は罪垢を食らう。
辻直四郎 訳


祭式の残饌を亨くる善良の士たちは、一切の罪垢より解き放たる。されど、己れのため炊ぐ邪悪の徒は罪穢を受く。
鎧淳 訳

 
上記の、"自分のため" "自己のため" "己のため" の箇所を、自分の感覚の楽しみのためにと訳す本もあります。

神々に供養した食物をいただく人は、全ての罪から免れるが、己の味覚の楽しみのため食物をとる者は、罪そのものを食べることとなる。
日本ヴェーダーンタ協会

 

神に供えた後の食物をとる正しい人は
凡ての罪から免れることができる
味覚の楽しみのために食物を用意する者は
まことに罪そのものを食べているのだ
田中嫺玉 訳

 

この節を選ばれた冒頭のIさんの読まれていた訳(上村勝彦 訳)には味覚の楽しみというフレーズはなかったのですが、Iさんはこの要素をご自身の経験・感覚から読み取られていたようです。満腹感もまた味覚同様、感覚。
この部分は「atma karana」→「自己+理由」なので感覚のことはとくに指していないのですが、そのまえに「bhunjate」という語が使われており、これは平らげる、消費する、使うという意味があり、五感の楽しみ(味)よりも満腹のほうがより近いかもしれません。


わたしはこの節が興味深いと思うのは「調理」という行為について述べている点です。
食べることも同じく行為なのだけど、食べることは生きるための行為であるのに対し、調理は祈るような行為。手間・時間・動作の体感としてすごく納得する部分がある。
一人用の食事で自分のためだけにしている作業でも、その行為を切り出してみると、ただ感覚を満たすためだけの雑なときと、祈るように手間をかけるときがある。
行為をする、作業をする、はたらくということに対して前向きになっている瞬間には、どこか祈りに似た感覚がある。
3章13節は、特定の信仰(神)を持たない生活をしていても感じるところの多い、とても示唆に富んだ節です。