まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ヨガの教えが人生に生きると思っている事例。「創造・維持・破壊」のこと

今日のヨガクラスの前に話したことを書きます。

わたしのヨガクラスで定期的にお会いするかたや別の仕事場でお会いするかたを見ていて、半年ほど前に発表された「約4割の人が感染を経験」(関東の都心の話です)という構成比が、わたしの周辺では実態に近い気がしています。

今日やその前後のヨガクラス参加のみなさんの構成比を見ても、3割くらいの比率です。

 

  *  *  *  *

 

COVID‑19に罹患したり、練習から離れなければならない状況を経たり、もっと大きなライフイベントでいえば仕事を辞めなければいけなくなったり、生活を大きく変えることになったり。

そういう、これまでやってきたことを再構築する場面は人生のなかに何度もあって、そのたびにわたしは、ヨガをきっかけに「創造・維持・破壊」という捉え方を知ることができてよかったとつくづく感じています。

このときに、三大神とその信仰地域のダイジェストもお話ししましたが、長くなるので割愛します。

 

 

  *  *  *  *

 

 

これからは男性も同じようになっていくと思いますが、女性の場合は構造上それをより多く経験するように身体も社会もデザインされていて、だからわたしは、現代ではヨガが女性に多くフィットしているのではないかと考えたことがあります。

 

 

ものすごく昔にさかのぼればヨガは男性のもので、12年の修行で成就することが目安とされ、家庭教師のように(ベスト・キッドMr.MIYAGIと少年のような感じで)伝授され、その後の家住期で一家の主となる人間の義務を果たすことも想定されていたものです。

 

 

なので現代にも残っている教えのエッセンスには、普遍的なものが生き残っているとも言える。

そういう貴重な教えのなかで覚えているものがいくつもあるなか、わたしは「創造・維持・破壊」というサイクルを身近なものとして見る経験をしたことがあります。

 

 

わたしがヨガを習ってきた場所はリシケシという地域で、わたしの通っていた道場はガートといってガンジス川の横の階段になった土手にありました。

そこでは数年連続して洪水があって、そのたびに床上浸水をし、道場は床を張り替えていました。そのときに先生が道場の画像とともに「破壊は創造の始まりだからね~」というコメントをFacebookに投稿しているのを見ました。

同時期に、その道場と同じ土手沿いにある寺院のシヴァ神像もプカプカとガンジス川を流れて下っていて、それも2年連続で見ました。

「また流れて行っちゃったね~。洪水なんだから、そうだよね~」という感じで画像とコメントが何人ものインドの人から投稿されていて、それが由々しきことでも悲しいことでもない価値観であることに良い意味で驚きました。

 

 

 

  まあ、そうなれば、そうなるんだよね。

  さて、またやりますか。

 

 

 

という感覚。

こういう世界の捉えかたを知ることができたのは、ヨガを学んでよかったことの大きな理由の一つです。

 

 

  *  *  *

 

 

という話を、身振り手振り満載でお話ししました。

宗教の学びかた

この文章を書いたのは20229月の第2週目で、最近のハタ・ヨーガのクラスの前に話したことを振り返って文章化しています。

普段はなるべく時代の空気をまとわない題材を選んでいるのですが、このトピックについては読み返したときに現在の日本の世相・空気が紐づいてくると思うので、冒頭に時期を記載しました。

 

ここ二ヶ月ほど、日本ではカルト組織(具体的には旧統一教会)の問題が毎日のようにニュースに取り上げられています。問題は組織の集金システム、外国と繋がった組織体、政界への人材奉仕&票数獲得とトレードオフで得る看過、自らの意思で入信したわけではない子ども(二世)の人権、社会のなかで居場所を感じられない帰属意識の問題など、太いものがいくつも複雑に絡み合っています。

 

わたしはもうひとつのブログ「うちこのヨガ日記」で、この二ヶ月の間に何度か、自分の過去の経験を書いています。

 

 

わたしは宗教について知りたくなったら、教義が書いてある本(経典や聖典)を読みます。

そのうえで、日本社会のなかでどんなふうに宗教の知識が取り扱われていくのがよいと思っているか。この日はわたしの経験から考えたことを話しました。

 

宗教と神話学

この日は参加者のなかに、少し前に「ギリシャ神話を読みはじめた」と話してくださっていた人がいらしたので、わたしからそのかたへ「入りやすい本、読みはじめやすいシリーズはありますか?」と質問するところから話がはじまりました。

 

ギリシャ神話については小学生の頃に見たプラネタリウムでの知識しかなく、神様の名前以外はあまり覚えていません。アキレス腱の由来になった話や前髪を掴む話、ナルキッソスの泉の話くらいは、ざっくりその喩えの意味するものだけ知っている程度ですと話しました。

この日は神話や聖典・聖書との接点について話したくて、旧約聖書新約聖書、あるいはキリスト教に関しては聖書が40以上あってあまりに多すぎるので、小説やダンテの神曲のような物語から入っています、という自分のスタンスを話しました。

 

物語を通して宗教に関心をもった最初のきっかけが、子どもの頃に見たテレビドラマの西遊記だったことも話しました。

わかりやすい勧善懲悪ではなく、妖怪の背景と事情にも焦点があてられ、最後は仏法に救われる。毎回繰り返されるこの物語に惹かれた理由がわかってきたのは、大人になって何十年も経ってからだった、というわたしの振り返りを話しました。

 

 

インドで自分の宗教観を話したときのこと

10年前にインドでヨガのティーチャー・トレーニングを受けていた頃、わたしはいろんな国の人から自分の宗教観をきかれ、その都度返答していくなかで自分の意識が整理されていきました。その時のことを、以下の例も含めながら話しました。

 

  • あなたはブッディスト? ときかれれば、わたしはとても尊敬している偉大な僧がいて(空海さんです)、その存在を事あるごとに想っているけれど、その僧が開いた宗派の信徒としてどこかの寺院やグループにコミットしているわけではないこと。

 

  • 日本では儀式として生まれたときや年末年始は神道(お宮参りや初詣)、結婚式はキリスト教、葬儀は仏教というふうに、ごちゃまぜである人が多く、どれか一つの瞬間を見てこの人はこの教義の信仰者だと判断できるものではないこと。

 

  • イタリア人でクリスチャンのルームメイトと輪廻転生についてどのようなイメージで話(授業)を聞いているのかを話したときに、ルームメイトは肉体を持った「復活」の刷り込みがあるので、その感覚が違うのだろうと話してくれたこと。

 

 

物語をたくさん知ること

先に経験を書いたインドでの合宿生活のなかで、特にヨーロッパから来ている人たちの間で、聖書や神話のエピソード、哲学者や賢者の人物名が出てくるのを見て、自分にはその共通知識がないことに気づきました。

思想の共有のしかたについて、このときに初めて「物語」の存在を意識しました。

日本人同士であっても古事記や日本書記のエピソードを共通の喩えに引っ張り出すことは珍しく、どちらかというと民話に近いものを共有することが多いです。

 

わたし個人が様々な宗教の教典・経典・聖典を読んで学ぶことと、物語と思想の共有のしかたについて切り分けて考えていくようになったのは、このときの経験が大きく影響しています。

この日のヨガクラスでは、冒頭でギリシャ神話や西遊記の話をしましたが、自分が興味を自然に持った物語から少しずつ範囲を広げていって、比較宗教学的な視点で触れていく。現代的なやりかたとして、それがいいんじゃないかという考えを話しました。

 

 

還暦になったときに、自分の視点が落ち着いた状態であるために

この日は参加者が同世代くらいまでの人に見えたので、これからの学びのイメージも話しました。

世界はもうとっくに繋がっています。宗教や信条について推測・想像するための幅広い基礎知識は、これからますますごちゃ混ぜになっていく世界のなかでは、基礎体力としてあったほうがよいでしょう。

冒頭でギリシャ神話や西遊記の話をしましたが、いまからでも “自分が自然に興味を抱いた物語” から範囲を広げていって、宗教について知っていくスタンスをとっていくのがよいと思っています。

 

宗教は死生観との結びつきが強いので、年配の人が病気をきっかけに近づいていくことがありますが、現在のわたしは死生観に強い関心があるわけではありません。それより、なぜ世界に信仰というものがあるのかに興味があります。

これから年齢を重ねていくなかで、世界のニュースがさらに複雑化した状態で入ってきても、わたしにはわたしの見かたがある状態でいられるようにと思っています。

 

 

この日はこんな話をしました。

あなたはどう考える? とヨガの先生から問われたときのこと

先日、わたしが主催する読書会の冒頭で、初めてヨガを教わった先生の話をしました。
その先生は流暢な日本語を話す、インドのコルカタからやってきた先生で、客観的な視点から教えてもらう日本の歴史はとても興味深いものでした。(先生は昨年他界されました)


先生は政治や社会情勢についてよくお話をされていて、なかでも日本社会特有のあることについて、事件が起こるたびに「あなたはどう考える?」と生徒に訊いていました。

日本社会特有のあることというのは、

 

 


  責任能力を問えないという結論に着地する
  無差別殺人のような事件

 

 


先生は「また犯人の頭がおかしいことにして終わりにした。それでいいと思うか。あなたはどう考える?」と。


わたしはこのことについて、ヨガ教室に通い始めるまで考えることを避けてきました。
なんなら、”頭がおかしい” の定義がはっきりしてくることで、長期的に見たら安全性が高くなるのではないかとすら、ぼんやり思っていました。深く考えもせずに、犯人を別の生物のように見ていました。
この最初のヨガの先生が、わたしのそのような思考に気づかせてくれました。

 

その後わたしはインドへ行き、別の学校のティーチャー・トレーニングを受けました。
そこでは哲学のディスカッション授業が毎日あり、数ヶ月を過ごすうちに自己についてさらに考えるようになりました。
それまでのわたしのヨガは、なるべく医者にかからず健康でいるに越したことはない、強い身体で年齢を重ねていこうという意識で、心の仕組みのほうへはそんなに関心が向いていませんでした。
それまでずっと、ヨガの練習の後の心身の清々しさだけを理由にヨガを続けることができていました。

 


ヨガの心理学をインドで学んだのは、最初の先生のところでヨガを習い始めてから8年後のことでしたが、事件について個人の考えを問う先生から、ヨガを始めた時点で種を撒かれていました。


この話は、ずっと忘れていたことでした。
先日わたしが行った読書会の課題図書が「事件」を取り扱うものだったので、開催前日に急に思い出し、冒頭でこの話をしました。