まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

「光り輝く」にもいろいろありまして

これは、たまに背景の思想も含めながら説明をする拡大版・ハタヨーガのクラスで話したこと。
その内容に、解説を加えて書きます。その日は呼吸法のカパーラ・バーティをやりました。
この「バーティ」には光り輝くという意味がありますが、あまり端的に話してしまうと、強い全能感を渇望した人にとっては食いつきポイントになりやすい。わたしはヨガのこういう側面をリスクとして捉えているので、それなりに説明を加えられる流れのときだけ、クラスの構成に入れています。

 

わりとゆったり説明するクラスでは、「○○にも、いろいろありまして」というトーンでお話しています。
今日はそのなかでも「光る」「輝く」のこと。

日本語でも、明るいとか、輝いているとか、パッと華やぐとか、ぎらついているとか、聡明だとか、そういうふうに人の状態を表現することがありますが、それと似ています。
たとえば美容に関する表現では「内面から輝く」「内側から輝く」のような表現をよく目にします。自己を知り、知性も兼ね備えた輝き。この場合、ヨーガ周辺の教典によく出てくる語では「プラカーシャ(prakasha)」が似ています。
カパーラ・バーティという、横隔膜を使った呼吸法の名前になっているバーティも「輝く」なのですが、この場合はカパーラが頭蓋骨をさしているので、語の羅列では頭蓋骨が輝くという訳になります。練習を通じて感じるものとしては、頭に酸素が回って頭がはたらきだして、すっきりと頭をはたらかせるエンジンがかかる。鏡を拭いて曇りが取れて光っていく感じと似ています。

 

このほかに、シヴァ信仰色の強いハタ・ヨーガなど神話学的な要素の絡むものには、「ヴィラサナ(vilasana)」という語が出てきたりします。これもまた輝きです。
これは神の輝きなので、もうまぶしいほど。フラッシュのようです。ぎらっぎらの金ぴかの、豊臣秀吉が求めた力に似た、異様な活動力を含んだああいうものを想起させます。

 
このように、微妙にニュアンスが違うのと、やはりインドはインドの神話学があるので、そことも連動している。日本人が日本人に伝えるヨーガのクラスでは、「"光り輝く" にも、いろいろありまして」という話のできる場でないと、わたしはうまく話すことができなません。

 

 パッとしないということはない。

 でも、他者の目を刺激するほどぎらついてもいない。

 

こういう、安定したほんのりとした輝きが絶えない状態を、わたしは現実的な着地点として、理想の状態ととらえています。
自ら輝かず、ただひたすらに「照らしてくれ!」という印象を周囲に与えてしまう「パッとしないのに、ぎらついている状態」を脱するために、まずは自分の頭の中の曇りをとっていく。そこから、内面からの輝きへ進んでいく。

光り輝くというのは、すごく時間のかかることだと思っています。

訳のトーンの差を見る。バガヴァッド・ギーター9章23節の「avidhi purvakam」

バガヴァッド・ギーターを読む会の関西開催で話した、ギーターの日本語訳のおもしろさについて。

ギーターをいろいろな訳で読んでいると、こういうのは訳しにくいのだろうなと思うところがいくつもあります。
9章23節の最後「avidhi purvakam」の部分は、学者の先生の訳とそれ以外の訳のニュアンスが少し割れていて、興味深いです。
「purvakam」は前の語を引いて「~によって」とか「~で」という意味です。according to 、です。
そしてそれがかかってくる「avidhi」は「a(否定)+vidhi」。「vidhi」は「正規ルール」「正しいやりかた」「儀式」「メソッド」というような意味です。
これが辞書を引くとおもしろいところなのですが「avidhi」で辞書を引くと、


 通常じゃない → 異常 → まともでない


というふうに、少し展開の進んだ意味を含んでいきます。


この部分の訳を読み比べると、岩波書店講談社中央公論社から出版されるような学者の先生の訳は「正規ルール」の反対の意味に近いニュアンスになっています。
(該当の箇所を太字にしています)

他の神々に帰依する人々も、信を抱き祀るに、また、クンティー妃の王子よ、作法に適わぬながら、ただに、われをば祀るなり。
鎧淳 訳


他の神格を信奉し、信仰を具えて祭る者、彼らもまた、クンティー夫人の子よ、〔実は〕われをこそ祭るなれ、たとい儀軌(祭式の規定)に適わずとはいえ。
辻直四郎 訳


信仰をそなえ、他の神格を供養する(祀る)信者たちも、教令によってではないが、実は私を供養するのである。
上村勝彦 訳


作法、儀式、教えというような要素を踏まえた訳になっています。
インド思想は、祭祀のありかたがそのまま思想を分けるようなところがあるので、この部分を抜かないように配慮するのが学者的ともいえます。


いっぽう、それ以外の訳者の日本語訳は「正しい方法ではない」というふうに、打ち消し方がシンプルです。

アルジュナよ、信仰心を持ち、他の神々を礼拝する信者達も、正しい方法ではないが、私を礼拝している。
熊澤教眞 訳

 

また深い信仰心をもって他の神々を拝む人々もいるが、クンティー妃の息子(アルジュナ)よ! 実は彼らもまた、正しい方法ではないのだが、やはり私を拝んでいることにな るのである。
日本ヴェーダーンタ協会


クンティーの息子よ 他の神々の信者で
真心こめて清らかな気持で信仰する者たちは
実はわたしを拝んでいるのである
正しい方法ではないけれども ──
田中嫺玉 訳

 
ここでこれらの「打ち消し方がシンプル」なバージョンを読み比べると、田中嫺玉さんの訳の倒置の効果にうなります。
「真心こめて清らかな気持で信仰する」は少し情緒的に強調しすぎかなとも思いつつ、最後が倒置になったようなまとまりと掛け合わせると、総合的に響きかたに全体性が出てくる。
サンスクリット語でこの部分(avidhi purvakam)は一番最後になっているので、田中嫺玉さんの訳のようにするのがそのままの置きかたです。ですが、その前の行は順番どおりではありません。日本語にしたときに「avidhi purvakam」の部分が倒置の効果を最大限に発揮されるよう、それ以前の三行が構成されているように見えます。


ちょっと細かすぎる読みかたかも知れませんが、わたしはこういうところがギーターのおもしろさでもあると感じています。

 

ビンゴでギーター 18章47節

この節は神戸で3名、東京で1名のかたが気になった節として選んでいます。
前半が3章35節とまったく同じなので、こちらを選んでいる時点で、決め手としては「天性によって定められた義務」「罪の意識」のあたりにおのずとフォーカスがあたります。4名のうち3名は「仕事」についての振り返りでしたので、後半にまとめます。
それぞれのかたが別の訳を読まれていたので、訳とそれぞれの理由を順に書きます。

 

自己の義務を完全には遂行できなくとも、他人の義務を完全に遂行するよりはすぐれている。
自己の特性によって定められた義務をおこなう者が罪を犯すことはない。


<同訳者の新版訳>
自己の任務を実行することは、それが不完全であっても、他人の任務をうまく実行するよりも優れている。自己の本性によって定められた行動は罪にならない。
熊澤教眞 訳

(選定理由)

  • 以前からギーターは読んでおり、身内に裁判を起こしたときのことを思い出しました。随分経ちましたが、わたしは理にかなっていたのかと今回初めて振り返ってみました。(神戸に参加・Nさん)

 ⇒詳細はお聞きしていないのですが、自分がなにかを実行しようとする=他者にとってそれが不利益となる場合に、「罪の意識」に訴えかけるようなやりかたは、たとえば年長者を敬う儒教的な認識を共有していれば、年長者にとってそれはひとつの「戦術」になりえそうです。そんなことを想像しながらお話をうかがっていたのですが、いずれの立場であっても、行為のすべてに罪の意識はつきものなのかもしれません。

このかたは旧版の訳を読まれていましたが、新版と読み比べると、「自己の特性によって定められた義務をおこなう者が罪を犯すことはない。」という訳は、罪になるかどうかを他者が決める社会(=わたしたちが生活をする社会)では、ちょっと強すぎるかもしれません。

 

 

以下は、みなさんまったく違う立場で仕事の話をされていましたが、どれも「ある…。わかるなぁ、この感じ」というものでした。

他者の職業を完全に行うよりも、自分の職業を不完全に行う方が優れている。生来の性質に応じて規定された義務は決して罪も報いの影響を受けない。

A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ

(選定理由)

  • 「長年勤めていた仕事を天職だと思っていた(思うようにしていた)けど、実は、そうじゃないんじゃいか? じゃあ、私の天職ってなによ?」と思う事があり、最後の一文に救われるような気がしました。3章35節もほぼ同じ内容ですが、最後の一文の違いでこちらを選びました。わたしは二つの仕事をしていて、ひとつは一般的に王道のように思われる企業勤め、もうひとつはヨガの仕事です。王道のように思われるほうの仕事では広い意味では動物を殺すことも含まれます、でもヨガの世界ではアヒムサーです。これらの二つのことをずっと考えています。(神戸に参加・Mさん)

  ⇒「動物を殺すことも含まれる」の箇所は、フード産業でもアパレル産業でもそうなので、ヨガをはじめてから折り合いに迷う人の多いところであること、よくわかります。インドにはアルタ(実利)・ダルマ(法)・カーマ(欲)という3つの人生の目的がモクシャ(解脱)と並列で定義されていて、義務に呼応する実利についてはダブル・スタンダードでバランスを取っているようなところがあります。

ヨガ周辺のことだけを学んでいると、このような葛藤におちいると思うのですが、ここでも「罪も報いの影響を受けない」というフレーズが響いてきます。わたしたちのなかに埋め込まれた「罪の意識」のチップのようなものは、これは一体なんなのでしょう。

 

 

自分の義務が完全にできなくても
他人の義務を完全に行うより善い
天性によって定められた仕事をしていれば
人は罪を犯さないでいられる
田中嫺玉 訳

(選定理由)

  • 昨年末に仕事を辞めたこともあって、ささります。とくに「他人の義務を完全に行うより善い」のところが。わたしはここがとにかくわからない職場環境にいました。自分の義務もやりながら、他人の義務をかなりやっている気がしていました。でも会社で働いていると、そこのところはグレーになりがちです。他人のことじゃないの? と思っていてもやらなければならないという思い込みでがんばっていました。(東京に参加・Kさん)

  ⇒「割に合わない」という気持ちが起こるとき、その「割り」というのの全体母数はどこにあるのだろう…、ということをわたしはよく考えるのですが、このときも個人を取り巻く状況を図にしてお話しました。

 

 

たとえ自分の義務(しごと)が完全にできなくても、他人の義務(しごと)を完全に行うよりは善く、天性によって定められた義務(しごと)を遂行していれば、人は決して罪を犯すことはない。
日本ヴェーダーンタ協会 訳

(選定理由)

  • 義務は義務でも「定め」られた「義務」って。当時は仕事に対してもやもやしていたので、インド的義務はともかく、自分の状況に置き換えるなら定められてりゃきっちりやるから、定められてる「義務」というのを知りたいわいと思ってました。設定以前のところでかみついてた感じです。(東京に参加・Iさん)

  ⇒このIさんの「かみついてた」という自己認識があるところ、その振り返りは「定められてりゃ、きっちりやるよ」と、安易に声高に主張することへの反省も含まれているように見え、尊敬します。

 


この節は自己肯定に利用したい人には危険な節に見えますが、他者から見ても頑張ってきたとしか言いようのない人には届いたほうがよい節とも思え、たいへんメッセージ力があります。

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