まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 3章35節

※2016年4月に関東で選定者が増えたため、加筆しアップデートしました。 

この節は関西で2名、関東3名のかたが選んでいました。前半は18章47節と同じですが、カーストのない日本人にはこの3章35節のほうが沁みやすいようです。

18章47節の後半は「本性により定められた行 為をすれば、人は罪にいたることはない。(上村勝彦・訳)」というもの。ヒンドゥーではカーストは自然法則(法 / ダルマ / dharma)の延長で神が与えたものとされているのでこのような節があるのですが、3章35節では「他人の義務」という表現がされており、この部分にハッとする人が多い。カーストのない、自由に仕事を選べる社会にいても、このような気持ちがわいてくる。

ひとりは、上村勝彦訳と田中嫺玉訳を比べて読んでいました。

自己の義務の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。

自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行なうことは危険である。

上村勝彦 訳

このかたの選定理由は、1行目と2行目それぞれにありました。(東京・Hさん)

1行目に対しては、以下の理由でした。

  • 人のことがうらやましくなることがある。自分の仕事(自営業のような感じ)と、企業のサラリーマンのように60歳くらいまで給料が出たりボーナスがある仕事を比較してうらやましく思うことがあるけど、自分は自分のことをやらないといけないと思うことが多いから。

2行目に対しては、以下の理由でした。

  • 「自己の義務に死ぬことは幸せ」とまでは思わないが、「他者の義務を行なうことは危険」と思うことがある。困った人を助けるような仕事をしていると、やりすぎちゃうときがある。でもそれはその人の力を奪うことになる。
  • やりすぎてしまうときは自分の中に欲があって、欠けているものを埋めにいっているようなところがある。あとで関係がギクシャクすることが多い。
  • 自分の中に「親切にするのは善いことだ」という価値観に陥りやすいところがある。でもそれはやめたほうがいいと考え、いまちょうど努力しているところ。

 

 

ほかのかた(4人)は、田中燗玉さんの訳を読んでいました。

他人の義務をひきうけるより 不完全でも自分の義務を行う方がよい

他人の道を行く危険をおかすより 自分の道を行って死ぬ方がよい

田中嫺玉 訳

 

それぞれの選定理由は、このようなコメントでした。

  • 夫に病気が見つかったとき、「わたしは、この先どうなるの?!」と、まず自分を案ずる自分がいました。そのとき、夫には夫の、自分には自分の人生があるはずなのに「他人の道」を行っていた、依存していた自分に気づきました。自分の道を見つけていかなければいけないと思いました。(神戸・Dさん)
  • ボランティア活動をしていた頃、そこで忠実に業務をこなしていたつもりだったのが、いつの間にか「こんなにわたし、よく怒る人間だったっけ?」と思うようになりました。しばらく違和感を持ちながら続けていたのですが、執着を棄てるためにやっていると思っていたことが、執着の対象に変わっていたことに気がつきました。離れてみたら、そこに「守られていた」と考えられるようになって、今はその頃よりも自分で決めていることが多く、楽しくなってきました。(東京・Tさん)
  • あるヨガの組織の中に所属していた頃、なにかに対して「清浄ではない」と考えるムードに包まれているのを苦しく感じたことがありました。その組織を離れてみたら、それは他の誰かの義務であったのかもしれないと思うようになりました。(東京・Sさん)
  • 組織の中で意にそぐわないことがあっても、それが役割であったり、それで経済が回っていたりします。どこに焦点を合わせていいかわからないこともあります。上から指示があれば従うのだけど、それもない状態で雇われています。指示がないので自分で決めなければいけない、でも横からちゃちゃは入るという状態でやっていたので、辞めることにしました。いまは後処理をしています。これまでは「それなりに自分はこなせるし、ナンバーツーのポジションがいい」と思っていたのだけど、不本意な思いを抑えられないこともありました。でも、独立することに恐れがありました。安定を考えると続けるほうがよい、ひとりになるのは破滅の道かもしれない。でもどうせ死ぬなら……、と考えたときにこの節が刺さりました。(神戸・Mさん)

 

この最後のSさんのコメントを聞いて、過去に4章22節を選んだ人が、はげしくうなずいていました。田中嫺玉さんの訳は「ある組織からの自立」について考えることがあるときにとても沁みる訳ですが、本来のギーターの主旨として含まれる要素としては、


本性にあった仕事=カースト
 ↓
アルジュナの本性は「武士(クシャトリヤ)」というカーストなので、戦うのが義務
 ↓
だから、やりなさい

 

ということです。

その点を踏まえつつ、さまざまな訳を読んでみましょう。

不完全に遂行せられたりとも、自己の本務は、美事に遂行せられたる他人の本務に勝る。

自己の本務において死するは勝る。他人の本務の遂行は、恐怖をもたらすのみ。

辻直四郎 訳

「美事」という表現は意訳的な当て字のようですが、とても奥が深いです。そして「恐怖をもたらす」というのは独特な訳です。

 

欠くるところありとも、己の本務の遂行は、見事完遂せる他者の責務にまさる。

己の本務に死すはすぐれ、他者の責務の遂行は危険をもたらす。

鎧淳 訳

あまり脚色のない、原典のサンスクリット語の羅列に近い訳です。

 

自己の義務の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。

自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行なうことは危険である。

上村勝彦 訳

「よい」「勝る」「すぐれる」となっていた部分が「幸せ」と訳されています。ここはいわゆる「幸福=sukha」ではなく「~のほうがよい」という語。田中燗玉さんほど情緒に語りかけることはないものの、本題の周辺での単語選びに深みのある訳です。

 

Better ones own duty, though devoid of merit, than the duty of another well performed. Better is death in one's own duty; the duty of another is fraught with fear.

iphonegita

 英語になると「devoid of merit」が、「別にメリットがなくても」という雰囲気に聞こえて、かえって現代人は本題に近づきやすいように思います。

 

 

新しい訳は「義務」、昔の訳は「本務」となっており、これは日本語の変化に合わせた違いでしょう。「務」の要素はいずれも dharma です。この節には「sva-dharma」と「para-dharma」があり、ここが「自分の義務」「他人の義務」の違いになります。自分の義務に含まれる「sva」は「おのずからなる性質」をあらわしま す。古代インドでカーストはヴァルナと呼ばれ、自然の法則の延長として定義されていました。そのカーストに生れた状況そのものが「おのずの性質」と考えられるため、クリシュナはこのように語っているというわけです。


 sva

 

自分で仕事や働きかたを選ぶことのできる環境にいるわたしたちにとって、これは「自分の意志で決めたこと」として咀嚼され、カーストがないにもかかわらず、自己を省みるきっか けになっています。先の三人のかたは、「義務」を自分で定義していたことに気づいたそうですが、その「自分で決めたわけでもない義務」はどこから生れてきたか。わたしはこれが、 「帰属意識」のダークサイドではないかと思います。

東京のTさんが「守られている」という表現をされましたが、大人になっても精神的に自立して日々を送っていくというのは、とても むずかしいこと。仕事をしているとどんな環境でも多少の不満は発生するものですが、自分のなかにある帰属意識を満たしてくれている側面に感謝することができれば、もう少し楽になりそうです。そして同時に「sva」から動ける仕事はなにかを、ゆっくりと探っていく。

日本人同士でギーターを読むと、また奥行きが違ってくるのが興味深いです。

 

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