まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 12章12節

この節は東京で2名のかたが選定されました。
この節は、以下の修行のステップやありかたを示す説ですが、選定された方々の選定理由はまったく違う視点ものでした。

 

 santih(静寂)
  ↑
 karma-phala-tyagah(行為の結果の捨離)
  ↑
 dhyana(瞑想)
  ↑
 jnana(知識)
  ↑
 abhyasa(ヨーガ観法の反復実修)

 

 

Nさんは以下の節を読んで「いつも、どっちがいいか悩んで考えすぎている自分」をかえりみたそうです。

精神集中行(アッビャーサヨーガ)よりも知識を究(きわ)める方がよく、
知識を究めるよりも瞑想を実修する方が勝り、
瞑想よりも行為の結果を放棄する方がさらに優れている。
何故なら、それを放棄すればただちに心の平安が得られるからだ。

日本ヴェーダーンタ協会版

 

Nさんの選定理由は、このようなコメントでした。

  • 特に後半「行為の結果を放棄する方がさらに優れている」「それを放棄すればただちに心の平安が得られる」の部分が刺さりました。いつも、「どっちがいいか」と悩んで考えすぎているので。どっちのほうがいい結果を得られるだろうかと、結局自分の利益を求めています。損しないように、危険に晒されないように、と。行為の結果を考えて悩んでいます。行為の結果を放棄するのがいちばんいい、というところに「ああ」と思ってこの節を選びました。

 

Nさんはギーターをよく読んでいる人です。このあとの会話はこんな流れでした。

Nさん:12章はバクティ・ヨーガを説いてますよね。欲から迷いがうまれているから、クリシュナは「こういう行為をするべきだ」「こうすれば救われるよ」という信愛を問うてきていて、そこにうん、うんと思って。

うちこ:ここは、この節だけ読むと浄化オタクにならないように知識・瞑想というのを説いているのかな、っていう読み方もできるところですが、ひとつ・ふたつ前の節もあわせて読む節ですね。「わたしのためにやりなさい」「わたしへのヨーガ(結びつき)のためにやりなさい」って、直接話 法です。損得の分析をさせない話法。Nさんは二元論を超えられない状態なので、こういう感じが刺さるんですよね。

Nさん:そうなんです。

(損得の分析をさせない話法については、以前「従者マウントの書として再読」というタイトルで別のブログに書いたことがあります)

 

もうひとりのIさんは上村先生版の訳を読んで、「わたしは常修でいいや」と思ったそうです。

実に、知識は常修より優れ、瞑想(禅定)は知識より優れ、行為の結果の捨離は瞑想より優れている。
捨離により直ちに静寂がある。

上村勝彦 訳

 

Iさんの選定理由コメント

  • 人間は弱いので、わたし的には一番下のほうでずっといい。結果を求めない捨離の状態なんて、ハードルが高いと思いました。わたしは下のプロセスを楽しもうかなと思っています。バラモンさんの世界のことは、遠く感じます。

このかたは神の世界・人間界・ほかの生き物世界の3界の概念がギーターに出てくることを知った上で、このようなコメントをされています。
これは人間としてたいへん冷静な共感ポイントであり、「常修」でイメージするものは各個人のヨガへの向き合い方によって違ってきますが、アーサナをシンプルに楽しんでいる人の感覚でもあるな、と思いました。
わたしはギーターはどの角度から見ても救いがあるところが好きで、たとえばIさんと同じ見かたをすると、落ち着きのない性分の人でも、身体を動かす瞑想というテがある。やっているうちに無になっている瞬間は「直ちに静寂」を得ている瞬間でもあるととらえることができます。


いちばん新しい田中嫺玉さんの訳は少しおもしろくて、頭優位(頭でっかち)になることを促さないように配慮した導入にも見えます。

ヨーガの実修ができぬ者は知識を究めよ
だが 知識より瞑想が勝り
瞑想より行果の放棄が勝る
行果を捨て去れば直ちに心の平和が得られる
田中嫺玉 訳

 

辻先生の訳では、ラストに(解脱)というカッコ書きが添えられています。

何となれば、知識(jnana)は常修(ヨーガ)より勝れ、瞑想(dhyana)は知識に勝る。行作の果報の捨離は瞑想に勝り、捨離より直ちに安祥(解脱)生ず。
辻直四郎 訳

余談ですがここの「行作」という二字は「カルマ・ヨーガ」をあらわすのに妙にしっくりくる字列で、うまいなぁと思います。


参考までに、他の訳も添えておきます。

知識は反復実修にまさる。知識より、静慮すぐれ、静慮より、行為の功果の抛捨(まさる)。抛捨より、ただちい寂静あればなり。
鎧淳 訳

 

なぜなら、知識は反復的心統一よりすぐれ、瞑想は知識にまさり、行為の結果を捨離することは、瞑想よりすぐれ、捨離からただちに静寂が生ずるから。
宇野惇 訳

 

これを修練するのが不可能なら知識を究めよ。だが知識より瞑想が勝り、瞑想より活動の報果の放棄が勝る。報果を放棄すれば心の平和が得られるからだ 。
バクティヴェーダンタ文庫版)

 

If you cannot take to this practice, then engage yourself in the cultivation of knowledge. Better than knowledge, however, is meditation, and better than meditation is renunciation of the fruits of action, for by such renunciation one can attain peace of mind.
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