わたしがインドで受けた哲学の授業は、
初日に
- インド哲学は「心と体は離れていない」というのがベースだよ
- パタンジャリって、「ヨーガ・スートラの人」「プレイヤー(祈祷師)の人」「文法家の人」、有名な人が3人いるよ
- ヨーガ・スートラは何度読んでも発見のあるスルメ本だよ
というところからはじまりました。
書物としてどういうものかという背景を含めながらの内容だったので、わりと早い段階で、ヨーガ・スートラについて
そこに「編纂」はあっても「預言」はないよ
という理解のスタンスを、シャルマ先生が話してくれました。
「預言はないよ」というのは、半数以上がヨーロッパからの生徒だったので、こういうトーンで話されたのかもしれません。
わたしはそのとき、「主張を持って編纂・編集されたものに向き合う」ということをはっきりと認識させられ、促される授業というのが初めてだったので、もうひとつの視点を得たような気持ちで身が引き締まったのを覚えています。
シャルマ先生は、このスタンスで学ぶことの楽しさを教えてくれました。
ヨーガ・スートラの各節の説明をしていても、第2章40節にいたっては
YS2-40:浄化によって、自分自身への身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。
(スワミ・サッチダーナンダ著 / 伊藤久子 訳)
YS2-40:清浄(の戒行)をまもっているならば、(修行者は)自分の身体(svanga)に対して嫌悪感をいだき(jugupsa)、他人(の身体)に接触しないようになる(asamgarga)。
(中村元 訳)
「これは、ユニークな節だよなぁ。
いつ読んでもおもしろいんだよなぁ」
と、先生。
そして、すかさず
「パタンジャリは、なんでこんなこと言ったんだと思う?」
と、振ってくる。
「でた。インド式哲学授業」と思う。ここからディスカッションが始まる。
わたしはこの授業がいつも楽しみで、日本に帰ってからは「編纂」「編集」ということに意識が向くようになりました。
そしてヨーガ・スートラ第2章40節の伊藤久子さんの日本語訳の絶妙さにうなる。ここに「いとわしさ」という日本語を置いてくれたおかげで、わたしは「厭わしさ(いとわしさ)」という語をより繊細に認識できた気がします。
哲学って「ことば」なんだよなぁ。と思うのは、こんなときです。