まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

さびた自転車であることを認めて、少しぐるりと大回りでいこう

わたしのところへは、かつてヨガをやっていて、久しぶりに再開しようという気持ちで来られるかたもいらっしゃいます。


先日、一度おいでになったあと少しブランクを経ておいでなったかたが「前回、頑張りすぎちゃって…」とおっしゃっていました。 「前回は、自分は昔ヨガをやっていたという気持ちがあって、無理をしないようにと言われてもついいけると思って過剰にやってしまった」とのこと。あまり正直に口にできる人が少ないなか、そんなふうに振り返ることができるのはすてきだなと思いました。


わたしはよく練習と身体を自転車に例えるのですが、乗り方を知っているという気持ちと、車体が錆びている状態は別のこと。それはそれとして捉えましょうと話します。

 

錆は錆。
動かしたり擦ったりして落としていかないと、いくら乗り手に技術があってもクイッとは曲がれない。昔やっていたとか、けっこうやっていた時期があるというマインド・セットでの練習のほうが、ケガをしやすく危険です。
やはり再開の時は、同じ角でもぐるーっと大回り(あるいは二段階右折)で角を曲がるような、そんな運転でいきましょう。

 

という話をしました。
昔けっこうやっていたという気持ちがある状態というのは、動きを見ていると耳が半分になっている感じにみえます。取りこぼしている指示が多いことに加え、インプットされたものを身体と照合する前に一瞬フィルタを挟んで "あるもののなかで答えあわせをしようとしている" のが挙動に現れます。その照合の瞬間にも運動としてはどこかに体重がかかっていて、角度によって危険が生じます。

 

── それにしても。
「知っているという気持ちがある状態」を見つめることができるというのは、すばらしいなと思います。
知っているという状態は、"できた" 状態が現れないかぎり、第三者には見えないもの。外からみえているあなたと自分で見ているあなたが乖離していることは第三者にはわからないから、そこにおごりがあることでどんどん孤立の道を歩んでしまう。
わたしもかつてハッとしたことがあるので、それを会って二度目の講師に対してさらりと口にできるというのはすてきだなと思いました。

 

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これは先日インドのアメーダバードで見かけた三輪車。まだまだ現役で仕事をしています。すてきな車体です。

ビンゴでギーター 3章13節

この3章13節は東京でビンゴしました。
お二人とも上村勝彦訳を読んでいらっしゃり、それぞれ理由を聞かせてくださいました。

  • 食欲万歳、常に力いっぱい食べるのを楽しみとする毎日なので、この節が気になりました。註釈を読んで「結果に執着しない行為なんて、そんな無茶な~」とも思いました。(東京・Iさん)
  • 蓄財という発想のない働き方をしていた人のことを思い出しました。亡くなる直前まで楽しそうにしていたので、この節が腑に落ちました。(東京・Mさん)

Iさんは自身の行為を省みることになり、Mさんは罪悪から解放されていったであろう知人のことを思ったそうです。


この節は註釈でマヌ法典との関連性に触れられているので、並べてみます。

祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
バガヴァッド・ギーター 上村勝彦訳

 


【家長の食事】
116:夫婦は、ブラーフマナ(の特別客)、家族、扶養人が食べ終わってから、残り物を食すべし。
117:家長は、神々、リシ、人間、祖霊、家の守護神を敬って後に(すなわち五大祭儀を終えてから)(彼らに与えられた食べ物の)残りを食すべし。
118:自分のために料理する者はまさしく罪を食べる。なぜならば、祭儀の残り物こそ善き人々の食べ物であると規定されているからである。
マヌ法典 3章116~118節 渡瀬信之 訳

 
マヌ法典の3章118節と連動しています。
ポイントは「調理する・料理する」のところにあります。行為にフォーカスがあてられています。
バガヴァッド・ギーターの3章13節は、前半に善の行為・後半に悪の行為というようにわかりやすい対比になっていて、悪のほうの行為の目的は少し訳によって割れます。上村勝彦訳では「自分のためにのみ」となっています。
学者のかたの訳は一様に、ここに感覚の楽しみや欲の要素を入れていません。

祭祀の残饌(供物の残余)を食らう善人は、一切の罪悪より解放せらる。されど自己のためにのみ調理する悪人は罪垢を食らう。
辻直四郎 訳


祭式の残饌を亨くる善良の士たちは、一切の罪垢より解き放たる。されど、己れのため炊ぐ邪悪の徒は罪穢を受く。
鎧淳 訳

 
上記の、"自分のため" "自己のため" "己のため" の箇所を、自分の感覚の楽しみのためにと訳す本もあります。

神々に供養した食物をいただく人は、全ての罪から免れるが、己の味覚の楽しみのため食物をとる者は、罪そのものを食べることとなる。
日本ヴェーダーンタ協会

 

神に供えた後の食物をとる正しい人は
凡ての罪から免れることができる
味覚の楽しみのために食物を用意する者は
まことに罪そのものを食べているのだ
田中嫺玉 訳

 

この節を選ばれた冒頭のIさんの読まれていた訳(上村勝彦 訳)には味覚の楽しみというフレーズはなかったのですが、Iさんはこの要素をご自身の経験・感覚から読み取られていたようです。満腹感もまた味覚同様、感覚。
この部分は「atma karana」→「自己+理由」なので感覚のことはとくに指していないのですが、そのまえに「bhunjate」という語が使われており、これは平らげる、消費する、使うという意味があり、五感の楽しみ(味)よりも満腹のほうがより近いかもしれません。


わたしはこの節が興味深いと思うのは「調理」という行為について述べている点です。
食べることも同じく行為なのだけど、食べることは生きるための行為であるのに対し、調理は祈るような行為。手間・時間・動作の体感としてすごく納得する部分がある。
一人用の食事で自分のためだけにしている作業でも、その行為を切り出してみると、ただ感覚を満たすためだけの雑なときと、祈るように手間をかけるときがある。
行為をする、作業をする、はたらくということに対して前向きになっている瞬間には、どこか祈りに似た感覚がある。
3章13節は、特定の信仰(神)を持たない生活をしていても感じるところの多い、とても示唆に富んだ節です。

暗示になるから言わない

これは座学ではなくヨガクラスであったこと。
直近数回の練習の動きで少し気になる左右差が見えた人に

 

 「右の足首、ケガかなんかしてます?」

 

とたずねたら、とくにケガではなかったようなのですが「前から気づいていたのですか」と言われました。
気になっていたのは1ヶ月前くらいからで、当然それ以前の動きの記憶と照合しています。アーサナのクラスをナビゲートをしている人はみんなそうだと思うのですが、そんなにむずかしいことをするわけではない動きのときは、いろいろ気づいても静観することが多いものです。
これはわたしの考え方なのですが、人には以下のような心の状態に個人差があると思っており

 

  • 自分にOKを出す早さ
  • 自分にNGを出す早さ
  • 自分へのOKを他人から得ようとする度合い
  • 自分へのNGを他人から得ようとする度合い


この状態を見極めないと目に見えないことの確認は口に出せないので、ケガ以外の可能性では、結局ほとんどリアルタイムでこちらから質問をすることはありません。
動きながらのコミュニケーションでは、呼吸のしずらくなる方向へ向かっていたり、膝に過度の負担がかかりそうだったり、顔に力が入るほどであったり、角度がやばいときだけサジェストをする。そのくらいです。
「ここ、こうすればもっといける!」なんて提案こともありますが、そういうときはそういう前提のチャレンジクラスで、いけると予想して口にしています。

 


人の心の状態にはいろいろありますが、とくに注意すべき状態というのがあって

 

 自分へのNGを他人から得たい

 

これは不思議な感情にも見えるかもしれませんが、「他人から得たい」は占いビジネスがある限りなくならない感情というか、多くの人にある感情です。

 

 NGを得たい

 

というのが、とても大きな問題です。

 

 だから、できないんだ

 

と、怠惰に陥りたい気持ちが含まれていることが少なくないからです。
さらに進んで

 

 他人に代弁させたい

 

となると、これはエゴに貪りがブレンドされた意思。これに乗ってしまうと、相手に「盗み」をさせたことになってしまいます。
何かを誰かに問うときに「○○ですか?」ではなく「○○ですよね?」という問いの文章を無意識に選んでいる人は、盗みの心を働かせている瞬間でもあるので、盗まれる側がセキュリティを固めておくことで悲しい事態を防ぐことができます。

 

 暗示が欲しい

 

誰だって間違いのない方向を他者が決めてくれるなら、とてもラクです。でもそれができないから、自分で決められるように修練をしています。
いまの日本の社会はインドと少し違って、仕事や結婚などの人生のさまざまな決定を自分で負う部分が多いので、「できる」「できない」と「する」「しない」の境界で自己を見失わないようにし続けることがむずかしいと感じます。
そんな思いもあって、自分の発する言葉が暗示にならないように気をつけています。
バガヴァッド・ギーターのアルジュナは、自分の迷いがなくなるように言い切ってくれ、言い切ってくれとクリシュナに何度もせがみます。もう、きりがないほどに。
読んでいると、なかなかよい戒めになります。