まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

マインドレスのマシーン状態

カパーラ・バーティの説明でシャルマ先生が話していたことのメモに、こんなフレーズがありました。

 

 mindlessの、マシーンのようなやりかたでは影響が少ない。

 

影響というのは、この呼吸法はカパーラがバーティする。頭蓋骨がピカーッと輝く。クリヤ。浄化。


このメモはあとで読み返して考えるたびに、ここがひっかかる。
「マインドレス」は、よくきくあの「マインドフルネス」の反対語のようにも受け取られることがある言葉。
わたしはこのことについて、「影響が少ない」のは、べつに悪いことではないのでは? とも思ったりする。
影響を多く求めることは、効率を追うことともいえないか。これがなにかのブーメランに思えてしょうがない。


この呼吸法はかなりの数を行うことで陶酔しやすい呼吸法なので、説明するにあたっては、それを防ぐためのフレーズも欠かせません。
ムーラ・バンダさえ外さなければ魔境へ行ってしまうことはないので、ムーラバンダの重要性を実感する呼吸法でもあります。
これについても、先生の発言のメモを見ると、このようなフレーズが。

 

 これはナディとムーラバンダの呼吸だ。

 

カパーラ・バーティは、そのネーミングからつい、頭・意識・覚醒・精神・スピリチュアル!引き寄せ… という方向への欲望を抑えられない人が多く出てきてしまう。

インドでは日本に居るとき以上にアメリカやヨーロッパからヨガを学びに来ている人が多かったので、その点をふまえて話す先生の話しかたは、いまでもときどき思い出して考える材料になっています。

行為と知識。感じているときがチャンス

シャルマ先生の講義ノートに、こんなメモがあり、
ここは見るたびに「!」となります。

 

knowledge - feeling - action
                       |
                  chance


action は knowledge を兼ねるけど、その逆はない。
100のことは同時に起こる。

 

「言うのは簡単」というだけでなく「知ってる、と思うのも簡単」という事態。
たしかに行為でしか、理解を証明することはできません。


このメモには「knowledge」と「action」の間に「feeling」があり、
さらに「feeling」の下に「chance」と書いてあります。


感じている瞬間が、機会。
行為が形だけで、感じていない瞬間もあります。
たまに慣用句のようなフレーズを心なく使ったあと、ハッとすることがあります。
「知識」だけでも「行為」だけでも、生きた感じがしない。
漠然とした空虚感やむなしさは、「知識」と「行為」の間に住み着くのかもしれません。

男は九つの門、女は十の門。ヨーガは長らく、男性たちのものだった

ヨーガでは感覚を統制することを教えるので、わたしはアーサナのクラスでもたまに、感官=門の説明をします。

 

ヨーガでは肉体を「九つの門のある城」のように表現します。
門というのは、感覚の発生するきっかけを作る穴。
眼×2、耳×2、鼻×2、口、尿道、お尻の穴で、9つ。
女性はもういっこあるので、10ですね。
その門を、お城の主がコントロールするということをヨーガでは説いています。

 

なんて話をします。
そのあとに、ちょっと余談で

 

古典には、当然9としか書かれていません。ヨーガはずっと男性のもので、長い歴史からいえば、女性も普通にレッスンできるようになったのは「つい最近の話」みたいな感じです 。


というと、「えーっ?!」といわれるのですが、
1935年にディヴァインライフ・ソサエティでヨーガの教えが女性に開放され、それがイギリス統治下にあった当時は勇気ある行動であった。
と、この本のなかにあります。

 

 

リグ・ヴェーダに「ヨギ」という記述があるBC1200年~いまの2015年までで、ざっくり3215年。のうち、80年。とすると、2.5%の昨今。
もちろん「ファキール」などの記述で伝記に登場する人を女性のヨガ行者とすればそんなことはないですし、ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーにもヨギーニーという記述はあるには あります。

▼参考:ヨーギン=男性 の道具のような登場のしかたをしているという話

 

「練習」が女性にも特異なことでなくなったのは、長い歴史から見るとかなり近年になってからのこと。
なので「古典に基いたとか」「本格的な」などと言われると、わたしのような女性のヨーガ講師はそもそも門外漢(漢じゃないけど!)ということになるかもしれません。

 


最後に、「九門」が登場する書物を紹介します。
バガヴァッド・ギーターでは5章の13節に登場します。(「バガヴァッド・ギーター」上村勝彦 訳 より)

【5章13節:BG5-13】
すべての行為を意(こころ)により放擲して、支配者たる主体(個我・デーヒン)は、九門の都城において安らかに坐する。何も行為せず、行為させず。

九門については、「シヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド」の3章18節にも記述があるそうです。(上記ギーター注釈より)

 

ちなみに、カタ・ウパニシャッドではの5章の1節に登場します。ここでは十一の門で、二つ多いのですが…
「ウパニシャッド 死神の秘境 / バラモン教典 原始仏典」服部正明 訳 より

【5章1節:KUp5-1】
ゆがみのない知性をもった不生のもの(アートマン)の(宿っている)十一の門をもつ城塞(身体)を支配すれば、人は憂いをいだかない。しかし、(その城塞から)抜け出したと き、彼は(真に)解放される。これこそまさしくそれである。

九に加わる二つはは「へそ」と「頭頂(死ぬと霊魂がここから出て行くとされていた)」が一般的な解釈だそうです。
五の知覚器官+五の感覚器官+マナス=11という説もあるそうです。これだとずいぶん、サーンキヤに近くなります。

▼参考:サーンキヤ・カーリカー関連節