まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 12章5節

この12章5節は東京で2名のかたが選定されました。顕現(vyakta)と非顕現(avyakta)について説いている節です。

だが、非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である。というのは、非顕現な帰結は、肉体を有する人々によっては到達され難いから。
上村勝彦 訳

 

ふたりとも上村勝彦さんの訳を読んで、選定理由は以下のコメントでした。

  • クリシュナ(=世界、神 と理解)に専念するよりも、労苦が多いことに(あえて)専念する人々がいるとは! 世の中にはすごい人がいるのだな、と思って。(東京・Kさん)
  • ブラフマンと一体になれ、といいながらそれは成し得づらい、それならば別の物体として存在するクリシュナを神として念じればいい、と解説書にありました。もっとストレートに念じられないのか、まどろっこしいなあと思い気になりました。(東京・Yさん)

 

Kさんは「そこまでしがみつけるなんてすごい」

Yさんは「もっとシンプルな態度で念じさせて」

ふたりの視点はいっけん逆ですが、これは信仰についてインドの後世で議論される「猿の道」と「猫の道」のあり方をと少し似ています。これは神と人間の関係を動物の親子関係にたとえたもので、川を渡る局面で

  • 猿=子が親の身体にしがみつく
  • 猫=子は親におまかせ。親が口でくわえて運ぶ

この、どちらか。こういう議論が過去にあったそうです。ラーマーヌジャという11世紀の哲学者の思想を受け継いだ人たちのあいだで起こったとされる、バクティに関する論争のふたつの道。

なにか信仰についてのフレーズを目にしたときに、このような双方の態度があることを知っておくのはたいへん重要なので、同じ節を読んでのおふたりのコメントはたいへん興味深いものです。

 

この12章5節そのものは顕現(vyakta)と非顕現(avyakta)について説いており、人間は肉体を持っているから、自分と同様に肉体を持ったものを信じやすいということなのですが、同じ日本語の訳を読み比べるよりは、英文を読むほうが認識しやすいです。

Greater is their trouble whose thoughts are set on the Unmanifest;for the Goal, the Unmanifest, is very hard for the embodied to reach.
(「iPhone GitaiPhoneアプリ


set on the Unmanifest のうえでの thoughts はむずかしい。「マニフェスト」は、よく選挙で目にする単語です。
vyakta(顕現)をマニフェストと訳しているのはたいへんおもしろく、英語なのに日本人向きな感じがするのは、いまの日本社会政治の運営方法がが欧米式で導かれているからでしょう。
できるできないは先のこととして、「こうする」と宣言するマニフェスト。顕現ではなく宣言だけどマニフェスト
これがないと、誰を信じていいかわからない。決定ができない。
ギーターのこの節で説かれていることは、こういうことと似ています。

ライチをはじめて食べたときのこと

バガヴァッド・ギーターに出てくる smrti(記憶)に karma-indriya(行為器官)、jnana-indriya(知覚器官)直接経験、推論を組み合わせた事例として、こんな話をしました。以下、口語調で書きます。

 

わたしはインドの書物にある記憶や五感・知覚・経験についての記述を読んでいると、「ライチをはじめて食べたときのこと」を思い出します。
それは中華料理店で、デザートとして出てきました。
でも見た目、なんかこわいんです。ごつごつしたボールのようなもので、冷気の湯気みたいなのがふわーっと出ていて。
でも状況としては、あきらかにデザート。手元に近づけてみると、ものすごくいいにおいがする!
わたしのこの「!」という反応を、周囲の大人たちはクスクス笑いながら見ています。
でもどうしても、見た目がこわい。なのに、いままでに嗅いだことのないものすごくいいにおいがする。
こどものわたしは、大混乱です。

 

状況として、たぶんこれは「いいもの」です。
なにかのおめでたい席か祝い事の食事で、ちょっと奮発して行くような中華料理店でした。
なので「そのこわいものは、いやなものではないはず」ということまでは、わかるのです。
しかもすごく、いいにおい。

 

おそるおそるその茶色いものに触れ、それが皮であると認識し、むいてみたら、なんか白い肉っぽいむっちりとした生きもののようなものが出てきました。

 

 幼虫?

 

そう思ったのです。
はじめてのライチは、わたしの経験と記憶のデータベースにないもので、さまざまな組み合わせでの推測を超えたもので、ただ状況と嗅覚だけが「わるいものではない」ことを経験から推論させます。
勇気を出して食べてみたら、そこに味覚が加わって

 

 世の中にこんなおいしいものがあるのか!

 

ということになったのですが、口に含むまではどこか幼虫と思っているところがあり、噛んだときもやはり幼虫という触感で、でもすぐさまえも知れぬおいしい味の果汁が味覚としてやってきました。
細かく刻むと、こんな認識です。

 


…と、こんなふうに話したのですが、「幼虫?」のところで

 

 あー。なんか、わかる!

 

と。


そうなんです。恐怖と視覚のハーモニー。
それほどに視覚というのは記憶にしぶとく刻まれ、判断の際に自己を縛ります。
えもしれぬよい香り  V.S. なんかこわい見た目 の五感認識と記憶と推論の事例。
こういうことを、人は日々瞬間瞬間、やっているのです。

きゃりーぱみゅぱみゅ

バガヴァッド・ギーターやヨーガ・スートラに出てくる smrti という「記憶」に関する話題のなかで、こんな話をしました。


「かわいい」にもいろんなかわいいがあります。
ピンクや赤のようなものや、まぁるいもの、ラブリィ、プリティ、ちっちゃなタイニィ… ああいうかわいさ、こういうかわいさ。
外国人の女性の友人に「あらゆる見た目の Good は Kawaii っていっておけばいいよ」と教えちゃうくらい。
こんなふうに、多くのニュアンスをひとつの言葉に持たせます。


でも頭の中ではその都度、「トーン」「ニュアンス」「ムード」を識別しています。
人が記憶を刻むときには、言葉としては同じ「かわいい」や「きれい」でも、頭の中で細かくこういう識別をしています。
そしてそれをだれかと共有するときに「言葉」を使うのですが、日本語はそのときにどの言葉を選べばいいか、毎回考えるのがしんどいですね。
だから少ない言葉に丸めて、とりあえず「かわいい」にしまうのかもしれません。

 

・・・という話の流れから、こんな話をしました。

 

 

わたしは最近、「ああいいうもの、こういう感じ」というトーンやニュアンスやムードを言葉で誰かと共有することについて考えるとき、

 

  きゃりーぱみゅぱみゅ

 

ってすごいなと思うんです。
「ああいいうもの、こういう感じ」というものに言いにくい名前をつけて、きゃりーぱみゅぱみゅとは、こういうことだ」というのを提示している。
いままでだれも、「ああいう存在」のかわいさやクールさを単語化していなかった、ということに気づかされた感じがしました。
もう、めんどくさくて言いたくないような名前なんです。いまこうして話していても、わたしは言うたびに疲れています(笑)。
でも「ああいう感じのあれ」を共有するためには、言うんですよね。わざわざ。「きゃりーぱみゅぱみゅ」って。
そのたびに、こんなにめんどうな名前を言ってまで彼女についてのなにかを共有したいわたしを認識せざるを得ないんです。

 


 きゃりーぱみゅぱみゅ
 ホンモノが何なのかなんてどうでもよくなる。
 そういう「現われ」みたいな感じがすごいなと思うんです。
 クリシュナみたい。

 


この日はバガヴァッド・ギーターの読書会で、12章5節にある顕現・非顕現や神の姿の話をした後でした。なのでこの話も最後は「その流れでクリシュナ?!」という感じになりましたが、神が顕現するということや目に見える神という概念について考えるとき、「それを認識するわたし」が必ずセットになります。
そういうときの、共有しやすい投球事例が「きゃりーぱみゅぱみゅ」なのでした。