まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 2章32節

この節は関東で1名、関西で1名のかたが選定されました。選択理由をお聞きすると、お二人ともクリシュナ強い鼓舞のメッセージに少し違和感を感じつつの選択でした。
理由は、それぞれ以下のようなコメントでした。

 

関東でこの節を選んだかたの、訳とコメントはこちら。

たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。
上村勝彦 訳

生きることについての、先輩からの非常に親切な励ましにみえました。
「たまたま訪れた」(機会)はこのギーターの中での設定では戦争ですが、「開かれた天界の門である戦い」の部分はすべての人に当てはまることではないかと。人それぞれ違っても。わたしがわたしだったから出会えた場面というふうに解釈しました。
わたしは自分が生粋の日本人なのに日本人の感覚がわからない、と思うことがあります。学生の頃、自分が参加しなかった集会にほかの人全員が参加して「こうしなさい」と言われたことをやっていて、わたしだけ知らないからできなかったことがありました。たとえばそういうときのような「みんながそうする、そういうもんだ」ということよりも、「神に定められた」くらいの、こういうインドの感覚のほうが、トリッキーにも見えるけど、しっくりくるところがあります。(東京・Kさん)

 

「定め」を空気やムードで読まなければいけない状況よりも、このくらいわかりやすく示されたい。たしかに学生生活ではこのへんの判断がむずかしかったと感じること、あったな…、と、わたしも共感します。

 

 

関西でこの節を選んだかたの、訳とコメントはこちら。

武士階級(クシャトリア)の義務を考えるなら、正義(ダルマ)を護る戦いに加わることは、武人にとってこれに優る幸せはない。だから君が戦うことをためらう理由など一切ないのだ。
日本ヴェーダーンタ協会版

説得として雑だなと思うのだけど、こんなふうに言い切られると乗せられちゃうかな。わたしは世代的にオウム真理教の事件をすごく覚えているのですが、こういうところを使っていたのかな…、なんてことも考えます。(神戸・Kさん)


鼓舞されることと思考停止はイコールかと戸惑いながらも励まされるという、客観性を持ちつつのセレクトでした。

ギーターは思考停止させるようなフレーズが多く見えるといえば見えます。職業選択が自由であるという体裁の国で生きている人(日本人)がこの本を読んだとき、「えっ?」と思うほうがわたしは健康的ではないかと思っています。
ギーターの背景にある、カーストや職業区分・世襲制などで限られた世界で限られたノウハウが共有されていくインドの社会は、親や先輩を尊敬しやすく信頼関係を築くのに合理的なシステムが敷かれた社会。でも今わたしたち日本人が住む日本社会は、そうではない。
アルジュナは弓の名手で、武士としてたいへんかっこいい存在です。読んでいるインド人にとっては、有名なボクサーが試合に出たくないと言っているような、そういう見えかたの場面です。
「トリッキーにも見えるんだけど、しっくりくる」「こんなふうに言い切られると乗せられる」という感覚が自分にあることはわたしもあり、ギーターを読んでいるとハッとすることが何度もあります。

 


参考までに、ほかの訳も転記します。

おのずから天の門戸は近づかれ開かれたり。幸福なるクシャトリヤ(のみ)、プリターの子は、かかる戦争に際会す。(辻直四郎 訳)

図らずも到来したる、開かれし天上界の門扉なる、かかるがごとき闘諍に、めぐりあう武士(もののふ)たちは、プリター婦人の御子よ、幸運なり、(鎧淳 訳

学者の先生のこれらの訳は、「門戸(門扉)」と「戦争」がセットであることが大前提なのだということが伝わりやすい文章に見えます。

 

プリターの息子よ 武人として
このような機会にめぐり会うのは
真に幸せなこと ── 彼らのために
天国は門を開いて待っている
田中嫺玉 訳

図らずもこのような戦いの機会を得ることは、クシャトリヤにとって幸いである。アルジュナよ、天国への門は開かれるだろう。(熊澤教眞 訳

上記はインド思想の学者のかたではないかたの訳ですが、「その機会があるということは幸福である」というところに意識が向きやすい訳に見えます。
たぶんこれ以上「戦う機会=幸福」が強調されすぎると、ブラック企業の就業マニュアルのようになっていくのだと思います。

ビンゴでギーター 12章5節

この12章5節は東京で2名のかたが選定されました。顕現(vyakta)と非顕現(avyakta)について説いている節です。

だが、非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である。というのは、非顕現な帰結は、肉体を有する人々によっては到達され難いから。
上村勝彦 訳

 

ふたりとも上村勝彦さんの訳を読んで、選定理由は以下のコメントでした。

  • クリシュナ(=世界、神 と理解)に専念するよりも、労苦が多いことに(あえて)専念する人々がいるとは! 世の中にはすごい人がいるのだな、と思って。(東京・Kさん)
  • ブラフマンと一体になれ、といいながらそれは成し得づらい、それならば別の物体として存在するクリシュナを神として念じればいい、と解説書にありました。もっとストレートに念じられないのか、まどろっこしいなあと思い気になりました。(東京・Yさん)

 

Kさんは「そこまでしがみつけるなんてすごい」

Yさんは「もっとシンプルな態度で念じさせて」

ふたりの視点はいっけん逆ですが、これは信仰についてインドの後世で議論される「猿の道」と「猫の道」のあり方をと少し似ています。これは神と人間の関係を動物の親子関係にたとえたもので、川を渡る局面で

  • 猿=子が親の身体にしがみつく
  • 猫=子は親におまかせ。親が口でくわえて運ぶ

この、どちらか。こういう議論が過去にあったそうです。ラーマーヌジャという11世紀の哲学者の思想を受け継いだ人たちのあいだで起こったとされる、バクティに関する論争のふたつの道。

なにか信仰についてのフレーズを目にしたときに、このような双方の態度があることを知っておくのはたいへん重要なので、同じ節を読んでのおふたりのコメントはたいへん興味深いものです。

 

この12章5節そのものは顕現(vyakta)と非顕現(avyakta)について説いており、人間は肉体を持っているから、自分と同様に肉体を持ったものを信じやすいということなのですが、同じ日本語の訳を読み比べるよりは、英文を読むほうが認識しやすいです。

Greater is their trouble whose thoughts are set on the Unmanifest;for the Goal, the Unmanifest, is very hard for the embodied to reach.
(「iPhone GitaiPhoneアプリ


set on the Unmanifest のうえでの thoughts はむずかしい。「マニフェスト」は、よく選挙で目にする単語です。
vyakta(顕現)をマニフェストと訳しているのはたいへんおもしろく、英語なのに日本人向きな感じがするのは、いまの日本社会政治の運営方法がが欧米式で導かれているからでしょう。
できるできないは先のこととして、「こうする」と宣言するマニフェスト。顕現ではなく宣言だけどマニフェスト
これがないと、誰を信じていいかわからない。決定ができない。
ギーターのこの節で説かれていることは、こういうことと似ています。

ライチをはじめて食べたときのこと

バガヴァッド・ギーターに出てくる smrti(記憶)に karma-indriya(行為器官)、jnana-indriya(知覚器官)直接経験、推論を組み合わせた事例として、こんな話をしました。以下、口語調で書きます。

 

わたしはインドの書物にある記憶や五感・知覚・経験についての記述を読んでいると、「ライチをはじめて食べたときのこと」を思い出します。
それは中華料理店で、デザートとして出てきました。
でも見た目、なんかこわいんです。ごつごつしたボールのようなもので、冷気の湯気みたいなのがふわーっと出ていて。
でも状況としては、あきらかにデザート。手元に近づけてみると、ものすごくいいにおいがする!
わたしのこの「!」という反応を、周囲の大人たちはクスクス笑いながら見ています。
でもどうしても、見た目がこわい。なのに、いままでに嗅いだことのないものすごくいいにおいがする。
こどものわたしは、大混乱です。

 

状況として、たぶんこれは「いいもの」です。
なにかのおめでたい席か祝い事の食事で、ちょっと奮発して行くような中華料理店でした。
なので「そのこわいものは、いやなものではないはず」ということまでは、わかるのです。
しかもすごく、いいにおい。

 

おそるおそるその茶色いものに触れ、それが皮であると認識し、むいてみたら、なんか白い肉っぽいむっちりとした生きもののようなものが出てきました。

 

 幼虫?

 

そう思ったのです。
はじめてのライチは、わたしの経験と記憶のデータベースにないもので、さまざまな組み合わせでの推測を超えたもので、ただ状況と嗅覚だけが「わるいものではない」ことを経験から推論させます。
勇気を出して食べてみたら、そこに味覚が加わって

 

 世の中にこんなおいしいものがあるのか!

 

ということになったのですが、口に含むまではどこか幼虫と思っているところがあり、噛んだときもやはり幼虫という触感で、でもすぐさまえも知れぬおいしい味の果汁が味覚としてやってきました。
細かく刻むと、こんな認識です。

 


…と、こんなふうに話したのですが、「幼虫?」のところで

 

 あー。なんか、わかる!

 

と。


そうなんです。恐怖と視覚のハーモニー。
それほどに視覚というのは記憶にしぶとく刻まれ、判断の際に自己を縛ります。
えもしれぬよい香り  V.S. なんかこわい見た目 の五感認識と記憶と推論の事例。
こういうことを、人は日々瞬間瞬間、やっているのです。