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まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、インド六派哲学のサーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ビンゴでギーター 16章2節

ビンゴでギーター

この節は東京で2名のかたが選定されました。

この節は前後の節とあわせて、3節にわたって「神的な者は、こういう性質であるべきだ」という事項が TO DOリストのようにリストアップされます。

田中嫺玉さんの訳>

至上者(バガヴァーン)語る
無恐怖 清らかな生活 霊的知識の養成 研究 慈善 自己抑制 供儀 経典・聖典の学習 性的清浄 簡素な生活(16章1節)

非暴力 正直 怒らぬこと 離欲 平静 他人の欠点を探さぬこと 口煩く小言を言わぬこと 生き物に思いやりをもつ 物事を熱望しない 柔和 謙遜 果断(16章2節)

気力充満 寛容 不屈 清潔 羨望心や名誉欲がないこと ── アルジュナよ 以上のような高貴な性質は 神に向かう人々に属するものである(16章3節)

 Tさんは「16章2節」の全体が、Yさんはこのなかの一つの単語「apaisnam」(他人の欠点を探さぬこと 口煩く小言を言わぬこと)の部分が気になったとのことでした。それぞれ、そこでお話した内容を書きます。

 

 

Tさんの選定理由は、このようなコメントでした。

こうなれたらいいな。と。あまりにもこうじゃない自分を振り返りました。
以前ヨガを習ったときの先生がヨーガ・スートラのヤマ・ニヤマの説明のときに、「思い」でも暴力になるとおっしゃいました。それも、他人に対してだけでなく、自分に対しても、と。思いと行動は逆のことができるけど、「思っていないことを思う」というのはできないので、むずかしいです。「思い」が悪いほうへ引っ張られると、そのまま引っ張られてしまうので。

ギーターはアルジュナを導く言葉なので「それができないのが一般的だよ」と言っている。そういう読み方もできます。
このときは、セッションワークをしました。

 


 さあ。あなたのお部屋にいま、ゴキブリが出ました。

 というとき、いつもどうしてる?

 

(回答の一例)

  • コックローチをシュッと…(フマキラーなどの製品で)
  • ゴキブリはカサカサした封筒に入る習性があるので、その季節になると部屋に封筒をセットしています。そこにおびき寄せます。
  • 動けなくなります。大声で「だれか~」と人を呼びます。


いろんなコメントが出ましたが、ここで話したかったのは、ゴキブリを発見したときのマインド設定。それを「想定外」としているか「想定」しているかの違いであらわれてくること。
Tさんの話す選定理由を聞いているとき、「客観的な善悪二元論にとらわれているな」と感じました。「他人によく思われる人=いい人。そうでない人=悪い人」と。


ゴキブリはわかりやすい事例ですが、常々人はなにかの準備をしています。ゴキブリの場合は殺虫剤、封筒、家族。最後の「人を呼ぶ」という人も、もし一人暮らしであれば、なにかを用意したかもしれません。

そしてこのほかに、「心」の用意があります。時期の察知も、そうですね。
Tさんは「"思い" が悪いほうへ引っ張られると、そのまま引っ張られてしまう」と、まるで悪い思いが通常でない、マイナスなことのような言いかたをされていましたが、自分に黒い部分があることを認識していれば、マイナスに「引っ張られる」と思う重さを減らせます。
「自分がもともとキレイである設定にして、性善説の前提で苦しむことを  "わざわざ"  していない?」と疑ってみる。16章1節のTO DO リストにも含まれていますが、インドでは「学習」のなかに、人にはマイナスの、それもとんでもなく黒い感情がいろんな種類で備わっていて、それは物質的に沸いてくるものであるという教えがてんこ盛りです。トリグナで物質的に捉えています。もともと、これくらい心の学習の背景の違いがあります。
日本人がヨーガを学ぶとかえってコントラストの強い二元論に陥り、ヨーガを武器に周囲を批判するというのはよくあることですが、わたしはその理由は性悪説を経ない性善説にあると考えています。Tさんに指導された先生の「他人に対してだけでなく、自分に対しても」のところをよりリアライズすると、こういうことかと思い、こんなセッションワークをしました。
このTさんの選定理由は、第17章16節とも関連が深いものです。

 

 

もう一人の選定者であるYさんは、「apaisnam」という語の訳に強く反応されていました。「a + paisnam」「a」は not です。

上村勝彦さんの訳では「中傷しないこと」という訳だったのに、田中嫺玉さんの訳を読んだら「他人の欠点を探さぬこと 口煩さく小言を言わぬこと」とありました。

いまわたしの生活は定年退職をして家でゲームばかりしている夫の存在が、目の上のたんこぶのようになっていて…… 先日小言をいってしまった後だったので、グサッときて。
人を見下すような心を持っている自分のほうが、人間の器が小さいのか。自分をさておいて、他人にこうなってほしいと思うのは執着なのか。と思いました。

 

まずは訳から掘り下げます。
この「他人の欠点を探さぬこと 口煩さく小言を言わぬこと」の部分にあたる「apaisnam」は、「a + paisnam」。「a」は not です。「paisnam」の部分の説明が訳者によって変わりますが、いちばんわたしがしっくりいくのが、辻直四郎先生の、こちら。

聖バガヴァッドは言えり。
無畏・内心の清浄・知識の修練における不撓不屈・布施・自制・祭祀・学習・苦行・廉直(16章1節)
不殺生・真実・不瞋恚・捨離・寂静・不毒舌・万物に対する憐愍・快淡・温和・慚愧心・堅実、(16章2節)
威力・忍耐・堅忍・清浄・無害心・謙遜、(これらは)神的分限に生れつきたる者に属す。バラタの後裔よ。(16章3節)

 

辻先生の訳は、発言する攻撃性よりも、発言の毒性をふまえた訳
この部分は訳者によって、これくらいばらつきます。

 

英語だと

  • aversion to fault finding(失敗を見つけようとすることを嫌いなさい)
  • absence of calumny(罪人呼ばわりしようとしないこと)

などがあります。


この「paisnam」は、わたしはその3節後ろにある16章5節「魔の性質は人を束縛に導く(田中嫺玉訳)」とも呼応していると思っています。「それはよくない」という言葉で相手を束縛し、精神的に自分の思想に縛りつけようとする。発言する攻撃性だけでなく、その性質の毒性を指摘する「不毒舌」という訳は、とても深い訳です。
「度量」はそういうことをしない度量をもつというところまで訳されています。あとに出る本ほどどんどん現代語にあわせて親切になっていきますが、たまに古い訳を参照すると、このような深みがあります。