まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

仕返しのチャンスがきたときに、ひっこめられること

今日ここで書くことは、バガヴァッド・ギーターの読書会にヒクソン・グレイシーという格闘家の自伝本を読んだことのある方がいらっしゃっていた際にわたしが話したことです。過去にその本を別のブログで紹介したことがあったので、ブログには書かなかった背景について話しました。
ヒクソン・グレイシーは、その精神性も含んだ強さがとても印象に残っている柔術の格闘家です。その格闘家がバガヴァッド・ギーターを引き合いに出しているのを読み、わたしは30代のうちにバガヴァッド・ギーターの教えと経験と重ねあわせることができてよかったと思ったのでした。
その理由を、このように振り返って話しました。

これはわたしの経験からですが、30代半ばを過ぎるとさまざまな環境で役割が動いたり一周したりして、めぐり合せのように「仕返しのチャンス」がやってくることがあります。わたしは過去に、かつて目上であった人と立場が変わった機会が何度かあり、その都度「仕返し」という発想を引っ込めてきました。引っ込めてきてよかった・仕返しをしなくてよかったと、いまになってすごく思います。その感じをヒクソン・グレイシーの本を読んだときに、これだと思ったのでした。
ヒクソン・グレイシーは格闘家なので、過去にずるい手で自分を苦しめた相手への仕返しのチャンスは、相手の選手生命を終わりにすることもできてしまう瞬間なのだそうです。そんなときに、自分で自分を神聖な方向へ修正してきた心の経験を本の中で語っていました。この心のコントロールの様子は、まるでバガヴァッド・ギーターの第6章5節・6節のようでした。
ヒクソン・グレイシーの本では、わたしが書いた「仕返し」に対応する要素が「おしおき」という言葉で訳されていました。「"義憤" を神テイストのフレーズで正当化し裁きを実行しようとする自分に悪魔性はないか」と自ら問うような、そんな鋭い言葉として響きました。


読書会では、経験談としてこのような要素をもっとカジュアルに日常的な経験を交えて話しました。
ヒクソン・グレイシーはブラジルの人です。ブラジルはキリスト教の人が多いですが、ヒクソン・グレイシーのように「戦い」に向き合っている人がいることを知り、「赦し」よりも「自己の敵は自己」という心持ちのほうが指針にしやすいと感じる自分の内面を肯定しやすくなりました。実際に強い人を見て、より理解が現実に近づくような気がしました。
そんな話をしました。

 

ビンゴでギーター 6章5節

※2018年6月に新潟で選定者が増えたため、加筆しアップデートしました。

この節は5名のかたが選定されていました。前半は向上心を強く後押しし、後半は自分を振り返ることを促す節です。

選定者の理由は、このようなコメントでした。

  • 職場でのできごとを思い出しました。上司の指示に混乱するAさんと、部下への声がけのしかたで混乱するBさんの板ばさみになったことがありました。Aさんから相談を受けた際に、わたしは「言われていることが分かりません、とその場で聞き返さないと、言われたことを理解して了解したってことになってしまう。わたしが一緒に話を聴いているときはBさんの言っていることを通訳してあげられるけれど、わたしいないところでAさんに言われたことは救えない。言われたことが分からないままにされるとプロジェクトも滞って問題だ」と答え、上司Bさんには「なにを言われているか分からない、とAさんが困っていた。伝え方を変えるなりなんなり、ひと工夫が必要では」と伝えたのですが、上司Bさんのスタンスは混乱のままで、結局Aさんが職場を辞めてしまい、自分にその仕事が回ってきました。この節を読んで二人のことを思い出し、わたしもAさんもBさんも(=三人とも)自ら自己を高めることを怠った結果、自己が自己の敵として立ちはだかったのかな、と思いました。(Wさん)
  • 友人が理不尽なかたちで仕事をやめなければならなくなり、今後どうするか悩んでいるとき、「クリシュナさんは、こんなこと言ってるのにな」と思ったことがありました。思い返すと、自分にも昔そういうこと(葛藤)があったかもしれない。でもそのときはわからなかった。いま友人を見ていると「もっと目の前のことをやればいいのに」「引っかかってることが見えてないな」と感じる。(関西・Yさん)
  • いままさに、自分で起こしたラジャス(から湧き起こる感情)に自分でとらわれているから。自分自身と仲良くできていないと思う。怒りの感情が自分を傷つけて、自分の敵になっている。いろいろな固定観念もあって、それにあてはまらないと無駄な怒りを起こして、それに地団太を踏むということをしている。自分だけを見ていられれば、もっと自分の心と友達になれるのに。(Tさん)
  • 田中嫺玉さんの訳の前半「人は自分の心で自分を向上させ 決して下落させてはならない」が特に選んだ理由です。苦手な人についての愚痴を、わかってくれるであろう人に聞いてもらっているときに、あの時もあの時も…ともやもやエピソードがどんどん出てきてしまいスッキリすることはなかった、ということがありました。言ったところで事態は変わらないなと思ったのでした。(関東・Yさん)
  •  ある受け入れがたい状況をきっかけに持病まで出てきてしてしまい、よくない心理状態が続いたことがありました。無駄に、必要のなかったことまでその状況に引き寄せて、余分なストレスを自分にかけていました。自分自身がその問題をどう捉えるのかということや、他人の苦しみについてもそのときのその人の状況なのだということを実感しました。(Hさん)

 

このほかにも、京都開催で多くの人がうなずいていたのが、「お客さんに言われたクレームがずっと心に残って、なかなか自分の中の火がおさまらない」という経験。わたしも仕事でクレームを受ける経験からさまざまなことを考えたことがあるのですが、人に批判をされた後に「自己こそ自己の友」と思えるような思考にもっていくのはなかなか大変です。

いろいろな訳で読んでみましょう。 

自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。

実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。

上村勝彦 訳

「沈める」という表現が印象的です。

 

 

心によって自己(個我)を向上させるべきであり、自己をおとさしめてはならない。

心こそ自己の友であり、また心こそ自己の敵であるから。

宇野惇 訳

 「おとさしめないように」となると、自己管理の主体性が増します。

 

 

人は自分の心で自分を向上させ 決して下落させてはならない

心は自分にとっての友であり また同時に仇敵でもあるのだ

田中嫺玉 訳

 「心」の使い方に、より「人格」が感じられ、神に近づくための道を示すことばであることが伝わりやすいです。

 

 

人は心によって魂を向上させ、決して下落させてはいけない。

心は制約された魂にとっての友であり、また同時に敵でもあるのだ。

バクティヴェーダンタ文庫版)

 「制約された魂にとっての友」の「制約」はコントロールできているという、よい意味です。次の英語版が参考になります。

 

 

One must deliver himself with the help of his mind, and not degrade himself. The mind is the friend of the conditioned soul, and his enemy as well.

http://vedabase.net/bg/

 「conditioned soul」です。

 

 

自己こそ自己の敵、というのはインドの古典でよく出てくる、解脱をめざす教義の定番フレーズ。この節には訳に「心」「魂」「自己」という日本語がそれぞれに充てられていますが、サンスクリットではすべて

 

 atma

 

で語られています。「心によって自己(個我)を向上」のところは atmanaatmanam。どちらもアートマンです。

自己責任もここまでくると、とことんです。「自己責任」は日本語だと少しつき放したような冷たいイメージがありますが、人間の語る自己責任と、神(ここではクリシュナ)の説く自己責任はすこし構造が違う。ここを理解できないと「何が正しいのか。なにが真実か」といつまでも誰かに問い続けなければいけません。

「バガヴァッド・ギーター」はこれをアルジュナ君がわたしたちのかわりに、とことんやってくれる。そういう書物です。他の宗教の聖典とはひと味ちがうおもしろさがあります。

パタンジャリは三人いる

インドでインド哲学のクラスを受けていた頃、初日にシャルマ先生がパタンジャリは三人いるという話をしてくれました。
これは弘法大師のようにあちこちに伝説があるという話だろうかと思っていたら、そうではありませんでした。
ヨーガを学ぶとパタンジャリ=ヨーガ・スートラの人、と思うだろうけれども、インド人にとってはほかにも○○の人、として有名なパタンジャリという名前の人がいるという話でした。

  • ヨーガ・スートラのパタンジャリ
  • prayerのパタンジャリ(祈祷師)
  • サンスクリット文法のパタンジャリ(文法学者)


インドは名前のバリエーションが少ないのでこういうことは多々あるのですが、これはたしかに「どのパタンジャリ?」となりそうです。
それぞれの専門家としてパタンジャリという人がいたという話です。