まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

5つのM(Panca Makara)の「Maithuna(性交)」

タントラ・ヨーガへの誤解を生むものとされている5つのM(Panca Makara)。この「Maithuna(性交)」についてはハタ・ヨーガ・プラディー・ピカー第3章83節のように理解のされかたとしては誤解を生みやすいものだという話になり、シャルマ先生がハタ・ヨーガの理解としてはこうあるものだという説明をしてくれたことがありました。(授業は英語だったので日本語訳はわたしによる訳です)

 イダーとピンガラーの出会いは一つの身体のなかにある。
 他の身体と交わることではない。

 

「5つのM」の冒頭でも書きましたが、わたしの場合は真言宗理趣経への誤解について日本の歴史の事例を少し知っていたので、ハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーにもあるそのような要素とイメージを重ねながら説明を聞いていたのですが、英語訳のハタ・ヨーガ・プラディー・ピカーには第3章83節以降のヴァジローリーについての記述の一部がカットされて出版されているものもあり、わたしの感覚よりも刺激の強いものとして受けとられているように見えました。

 

 

5つのMと魚の話

5つのM(Panca Makara)の話そのものは、インド思想のヨーガに関わるトピックの中では、"誤解のもとのひとつ" として形で扱われているもの。これについて、シャルマ先生が少しだけ雑談で話してくれたことがありました。どんな話しかたをするのかな…と、気にしながら聞きました。
わたしは日本の仏教、密教、そしてそのなかに真言立川流という変わった宗派もあったという歴史を本で読んだことをきっかけに、インドやチベット密教の歴史にあったとされる左道密教とよばれたものを「そういうものも、あったのだな」と認識しており、知識の免疫はあったので驚かなかったのですが、現代のスタイリッシュなヨーガから瞑想・哲学へと関心を寄せていく人にはやはり驚かれる話題のようです。


「5つのM」というのは、5つのMではじまるものを祀って行う儀式のこと。特異な宗派で行われていたと伝えられるものです。
パンチャが数字の5。Makaraは M+karaで「Mの字、Mの音」という意味。

  • Madiya(アルコール)
  • Mamsa(肉)
  • Matsuya(魚)
  • Maithuna(性交)
  • Mudra(印。「穀物」を指す理解が多いようです)

この「Maithuna(性交)」が特に誤解のもととされており、ヨーガの教典訳でも英語の本はここに結びつく内容の節をカットして出版されているものもあります。

 
先生は5つのMのうち「魚(Matsuya)」についておもしろい話をしてくれました。マツヤアーサナマツヤです。絵を描きながら以下の話をしてくださいました。(授業は英語だったので日本語訳はわたしによる訳です)

ガンジス川(ガンガー)とヤムナー川
それぞれの川を魚が下ってきて、出会う場所があるんだ

先生がどこかで学んだことを、思い出すようにつぶやくように話してくれました。


インド思想には、二つの流れが「合わさる」ことに神聖さを見るような、そのような考えかたがあるように見えることがよくあります。
アルコールと肉と穀物については「豊穣」以外の理由では祀るのに思いつくものがありませんが、魚のこのお話はまるで男女の運命の出会いのようで、少しドラマチックに聞こえます。こんなふうに惹きつけられる要素があるからこそ、さまざまな解釈が生まれてゆくのかもしれません。

 

仕返しのチャンスがきたときに、ひっこめられること

今日ここで書くことは、バガヴァッド・ギーターの読書会にヒクソン・グレイシーという格闘家の自伝本を読んだことのある方がいらっしゃっていた際にわたしが話したことです。過去にその本を別のブログで紹介したことがあったので、ブログには書かなかった背景について話しました。
ヒクソン・グレイシーは、その精神性も含んだ強さがとても印象に残っている柔術の格闘家です。その格闘家がバガヴァッド・ギーターを引き合いに出しているのを読み、わたしは30代のうちにバガヴァッド・ギーターの教えと経験と重ねあわせることができてよかったと思ったのでした。
その理由を、このように振り返って話しました。

これはわたしの経験からですが、30代半ばを過ぎるとさまざまな環境で役割が動いたり一周したりして、めぐり合せのように「仕返しのチャンス」がやってくることがあります。わたしは過去に、かつて目上であった人と立場が変わった機会が何度かあり、その都度「仕返し」という発想を引っ込めてきました。引っ込めてきてよかった・仕返しをしなくてよかったと、いまになってすごく思います。その感じをヒクソン・グレイシーの本を読んだときに、これだと思ったのでした。
ヒクソン・グレイシーは格闘家なので、過去にずるい手で自分を苦しめた相手への仕返しのチャンスは、相手の選手生命を終わりにすることもできてしまう瞬間なのだそうです。そんなときに、自分で自分を神聖な方向へ修正してきた心の経験を本の中で語っていました。この心のコントロールの様子は、まるでバガヴァッド・ギーターの第6章5節・6節のようでした。
ヒクソン・グレイシーの本では、わたしが書いた「仕返し」に対応する要素が「おしおき」という言葉で訳されていました。「"義憤" を神テイストのフレーズで正当化し裁きを実行しようとする自分に悪魔性はないか」と自ら問うような、そんな鋭い言葉として響きました。


読書会では、経験談としてこのような要素をもっとカジュアルに日常的な経験を交えて話しました。
ヒクソン・グレイシーはブラジルの人です。ブラジルはキリスト教の人が多いですが、ヒクソン・グレイシーのように「戦い」に向き合っている人がいることを知り、「赦し」よりも「自己の敵は自己」という心持ちのほうが指針にしやすいと感じる自分の内面を肯定しやすくなりました。実際に強い人を見て、より理解が現実に近づくような気がしました。
そんな話をしました。