まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

きゃりーぱみゅぱみゅ

バガヴァッド・ギーターやヨーガ・スートラに出てくる smrti という「記憶」に関する話題のなかで、こんな話をしました。


「かわいい」にもいろんなかわいいがあります。
ピンクや赤のようなものや、まぁるいもの、ラブリィ、プリティ、ちっちゃなタイニィ… ああいうかわいさ、こういうかわいさ。
外国人の女性の友人に「あらゆる見た目の Good は Kawaii っていっておけばいいよ」と教えちゃうくらい。
こんなふうに、多くのニュアンスをひとつの言葉に持たせます。


でも頭の中ではその都度、「トーン」「ニュアンス」「ムード」を識別しています。
人が記憶を刻むときには、言葉としては同じ「かわいい」や「きれい」でも、頭の中で細かくこういう識別をしています。
そしてそれをだれかと共有するときに「言葉」を使うのですが、日本語はそのときにどの言葉を選べばいいか、毎回考えるのがしんどいですね。
だから少ない言葉に丸めて、とりあえず「かわいい」にしまうのかもしれません。

 

・・・という話の流れから、こんな話をしました。

 

 

わたしは最近、「ああいいうもの、こういう感じ」というトーンやニュアンスやムードを言葉で誰かと共有することについて考えるとき、

 

  きゃりーぱみゅぱみゅ

 

ってすごいなと思うんです。
「ああいいうもの、こういう感じ」というものに言いにくい名前をつけて、きゃりーぱみゅぱみゅとは、こういうことだ」というのを提示している。
いままでだれも、「ああいう存在」のかわいさやクールさを単語化していなかった、ということに気づかされた感じがしました。
もう、めんどくさくて言いたくないような名前なんです。いまこうして話していても、わたしは言うたびに疲れています(笑)。
でも「ああいう感じのあれ」を共有するためには、言うんですよね。わざわざ。「きゃりーぱみゅぱみゅ」って。
そのたびに、こんなにめんどうな名前を言ってまで彼女についてのなにかを共有したいわたしを認識せざるを得ないんです。

 


 きゃりーぱみゅぱみゅ
 ホンモノが何なのかなんてどうでもよくなる。
 そういう「現われ」みたいな感じがすごいなと思うんです。
 クリシュナみたい。

 


この日はバガヴァッド・ギーターの読書会で、12章5節にある顕現・非顕現や神の姿の話をした後でした。なのでこの話も最後は「その流れでクリシュナ?!」という感じになりましたが、神が顕現するということや目に見える神という概念について考えるとき、「それを認識するわたし」が必ずセットになります。
そういうときの、共有しやすい投球事例が「きゃりーぱみゅぱみゅ」なのでした。