まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

ライチをはじめて食べたときのこと

バガヴァッド・ギーターに出てくる smrti(記憶)に karma-indriya(行為器官)、jnana-indriya(知覚器官)直接経験、推論を組み合わせた事例として、こんな話をしました。以下、口語調で書きます。

 

わたしはインドの書物にある記憶や五感・知覚・経験についての記述を読んでいると、「ライチをはじめて食べたときのこと」を思い出します。
それは中華料理店で、デザートとして出てきました。
でも見た目、なんかこわいんです。ごつごつしたボールのようなもので、冷気の湯気みたいなのがふわーっと出ていて。
でも状況としては、あきらかにデザート。手元に近づけてみると、ものすごくいいにおいがする!
わたしのこの「!」という反応を、周囲の大人たちはクスクス笑いながら見ています。
でもどうしても、見た目がこわい。なのに、いままでに嗅いだことのないものすごくいいにおいがする。
こどものわたしは、大混乱です。

 

状況として、たぶんこれは「いいもの」です。
なにかのおめでたい席か祝い事の食事で、ちょっと奮発して行くような中華料理店でした。
なので「そのこわいものは、いやなものではないはず」ということまでは、わかるのです。
しかもすごく、いいにおい。

 

おそるおそるその茶色いものに触れ、それが皮であると認識し、むいてみたら、なんか白い肉っぽいむっちりとした生きもののようなものが出てきました。

 

 幼虫?

 

そう思ったのです。
はじめてのライチは、わたしの経験と記憶のデータベースにないもので、さまざまな組み合わせでの推測を超えたもので、ただ状況と嗅覚だけが「わるいものではない」ことを経験から推論させます。
勇気を出して食べてみたら、そこに味覚が加わって

 

 世の中にこんなおいしいものがあるのか!

 

ということになったのですが、口に含むまではどこか幼虫と思っているところがあり、噛んだときもやはり幼虫という触感で、でもすぐさまえも知れぬおいしい味の果汁が味覚としてやってきました。
細かく刻むと、こんな認識です。

 


…と、こんなふうに話したのですが、「幼虫?」のところで

 

 あー。なんか、わかる!

 

と。


そうなんです。恐怖と視覚のハーモニー。
それほどに視覚というのは記憶にしぶとく刻まれ、判断の際に自己を縛ります。
えもしれぬよい香り  V.S. なんかこわい見た目 の五感認識と記憶と推論の事例。
こういうことを、人は日々瞬間瞬間、やっているのです。

きゃりーぱみゅぱみゅ

バガヴァッド・ギーターやヨーガ・スートラに出てくる smrti という「記憶」に関する話題のなかで、こんな話をしました。


「かわいい」にもいろんなかわいいがあります。
ピンクや赤のようなものや、まぁるいもの、ラブリィ、プリティ、ちっちゃなタイニィ… ああいうかわいさ、こういうかわいさ。
外国人の女性の友人に「あらゆる見た目の Good は Kawaii っていっておけばいいよ」と教えちゃうくらい。
こんなふうに、多くのニュアンスをひとつの言葉に持たせます。


でも頭の中ではその都度、「トーン」「ニュアンス」「ムード」を識別しています。
人が記憶を刻むときには、言葉としては同じ「かわいい」や「きれい」でも、頭の中で細かくこういう識別をしています。
そしてそれをだれかと共有するときに「言葉」を使うのですが、日本語はそのときにどの言葉を選べばいいか、毎回考えるのがしんどいですね。
だから少ない言葉に丸めて、とりあえず「かわいい」にしまうのかもしれません。

 

・・・という話の流れから、こんな話をしました。

 

 

わたしは最近、「ああいいうもの、こういう感じ」というトーンやニュアンスやムードを言葉で誰かと共有することについて考えるとき、

 

  きゃりーぱみゅぱみゅ

 

ってすごいなと思うんです。
「ああいいうもの、こういう感じ」というものに言いにくい名前をつけて、きゃりーぱみゅぱみゅとは、こういうことだ」というのを提示している。
いままでだれも、「ああいう存在」のかわいさやクールさを単語化していなかった、ということに気づかされた感じがしました。
もう、めんどくさくて言いたくないような名前なんです。いまこうして話していても、わたしは言うたびに疲れています(笑)。
でも「ああいう感じのあれ」を共有するためには、言うんですよね。わざわざ。「きゃりーぱみゅぱみゅ」って。
そのたびに、こんなにめんどうな名前を言ってまで彼女についてのなにかを共有したいわたしを認識せざるを得ないんです。

 


 きゃりーぱみゅぱみゅ
 ホンモノが何なのかなんてどうでもよくなる。
 そういう「現われ」みたいな感じがすごいなと思うんです。
 クリシュナみたい。

 


この日はバガヴァッド・ギーターの読書会で、12章5節にある顕現・非顕現や神の姿の話をした後でした。なのでこの話も最後は「その流れでクリシュナ?!」という感じになりましたが、神が顕現するということや目に見える神という概念について考えるとき、「それを認識するわたし」が必ずセットになります。
そういうときの、共有しやすい投球事例が「きゃりーぱみゅぱみゅ」なのでした。

さまざまな Law of nature

「ダルマ」が主題の講義のときに、シャルマ先生がさらっと雑談しながらリストした「自然法則」の例は、いかにもインド。

 

  • ガンガー(ガンジス川)には汚いものも流れてる。バラナシへ行ったら全てが合流して、もうぐちゃぐちゃだよね。それがダルマ。
  • わたしたちは空腹で家に帰ったときに、母がまず牛にチャパティを与えてもおこらない。それがダルマ。
  • 犬にどうやってプラーナーヤーマを教え、それをやらせることができるだろう。そんなの無理。犬は犬の自然法則で生きる。それがダルマ。
  • 動物の発情期はなぜか一緒になるね。それもダルマ。
  • 食物連鎖もダルマ。


ガンジス川の話のときに、タオイズムと似ているとちらっとおっしゃっていて、「水は低きに流れる」のあとに「人は易きに流れる」の話になるかと思ったら別の方向へ行きました。
なんとなく、雑談のように話すのが楽しい。メモに「この雑談おもしろかった」とある。でもこうして文字に起こすと雑談ではなかったのでした。