まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

面接のとき、右の鼻が通っていたら右足から踏み出す

月暦(ルナカレンダー)と左右の鼻の通りの優性について教わったときのこと。
月が大きくなる15日のスイッチ後、左右の優勢が一時間ごとに変わるという説明のあとに、シャルマ先生が雑談でよくあるメソッドとして以下のことを紹介してくれました。「You can change your luck.」と言いながら。

  • 面接のとき、右の鼻が通っていたら右足から踏み出す
  • 商談のとき、自分に向って相手が右側に来るようにポジションをとる
  • 男女の産み分けの話
  • 朝、手を見る。優位の手で顔をなでる
  • マントラを唱えてから優位の足で踏み出して出かける

このとき、マントラも唱えました。「Karagre Vasate Lakshmi」でした。
わたしはこの話をまるでバッター・ボックスに立つときの野球選手のようだなと思いながら聞きました。
この日は左(イダー)と右(ピンガラ)の優勢について教わり、以下のようなノートの記載があるのですが、新しい服を着たり宝石を買うことが左のほうに分類されているのがおもしろいと思いました。日本で暮らしてきたわたしの感覚だと、アクティブな感じがするからです。

左が優勢(Ida) 右が優勢(Pingala)
all peaceful work all active work,hard work
瞑想などのヨガの練習、信仰セレモニー、新しい服を着る、結婚、家を建てる、庭を造る、宝石を買う、水を飲む 軍隊の訓練、走る、人と集まる、乗馬、食べる、フィジカル・エクササイズ、登山、ウィンドー・ショッピング、感覚を楽しませるもの、手紙を書く

 

 
先日「シヴァ・サンヒター」を読んでいたら、第2章12節に以下の節を見つけました。

右側の道にある別の形態はニルヴァーナ(滅没)である。創成と環滅の作者たるこの日は縁起の善い時点を選んで運行する。
(「続・ヨーガ根本教典」より)

 ここを読みながら、この日の授業のことを思い出しました。

 

鼻の穴の左右を通す方法については以下に書いています。

質問を口にする前に自分に問いかける

10代の学生さんもいる場で講座を行ったときのこと。その日は初対面の人ばかりだったので「もし質問があれば、今日はこのあとまだここにいますのでどうぞ訊きに来てください」と伝えつつ、あわせて以下のことを話しました。

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もし質問したいことが起こったときは、自分の中で以下のふたつのことをまず自分に問う。これをすると、意識の整理ができます、と。

 

  1. その質問をする目的。なんのためにするのか
  2. その質問をするねらい。回答を得て、その後どうしたいのか


これを事前に自分自身の中で行って自分に向き合っておく作業をするのとしないのとでは、質問という行為の意味が大きく変わります。自分がどうしたいのかを知る方法に近づいていくことができます。

「したいこと」「やりたいこと」というのは、実はそんなに簡単に定まるものではなくて、実はわたしの世代になっても定まっていない人がいっぱいいるんです。でも若い人のほうが「やりたいことがみつからない」と思ったりすることが多いとされています。実はそんなことはないんです。

人に質問する前に自分への問いを立てる癖をつけることで、きっとやりたいことに早く近づけます。

 

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上記の話は10代の参加者がいたので話しました。漠然と自分の存在を印象づけたい、爪痕を残したい、知識や熱心さを示したいという我欲から起こる質問で自爆し残念な思い出になるようなことがないよう、意識のガードレールを設置したのでした。
「質問」という形式に便乗した自己表現で失敗をしたことがある大人は、それをなかったことにしようとする論理の苦しさを知る過程で多くのことを学びます。他者に与えられた機会を利用して場を支配しようとする行為のあさましさを恥じたことのある人にしかわからない学びの階梯もあります。


わたしがインドで受けた授業では毎日問答を繰り返していました。質問によっては「それは重要な質問ではない」の一言でスルーされることが何度もありました。逆に「それは重要な問いだ」とされた質問がその日の授業の主軸になることもありました。だんだん慣れていきましたが、日本人同士でこのようなやり方はむずかしいだろうとも思いました。

そんな背景もあり、日本の教育(授業)スタイルでずっとやってきた人に少しでもサンカルパを立てること、ヴィカルパをサンカルパにする意識のはたらきについて伝えたくてこんな話をしました。

「無執着」のよくあるまちがった理解

ヨーガの哲学に必ずといっていいほど、しつこいといっていいほど登場する「non-attachment」「detachment」については、「こうではない」というイメージを併せもつことが有効のようです。わたしは授業で「よくあるまちがった理解」について教わりました。

シャルマ先生は「non-attachment」も「detachment」も、どの分野においてもパフォーマンス発揮の極意だとお話されていました。
授業は英語だったので補足すると

  • non-attachmentnon愛着(「愛着のない」と訳すと「まちがった理解」に近づいてしまう)
  • detachment超然(「無関心」と訳すと「まちがった理解」に近づいてしまう)

実際ここの説明の時点で、わたしのルームメイト(イタリア人)が先生に「マザー・テレサの教えはどうなるの?」という質問を挟んでいました。detachmentを脳内で「無関心」と訳すのは日本人だけではないようです。


先生は「よくあるまちがった理解」として以下のことをリストアップされていました。辞書に登場する語のなかでも間違いから遠いであろうとわたしの思う日本語を添えます。

  • renunciation:放棄
  • insensitive:鈍感な、無感覚な、心ない
  • cold brooded:冷血な
  • emotionless:感情のこもらない
  • selfish:自分本位
  • non caring:面倒見のわるい
  • passive:保守的な
  • unable to love lonely:孤独を愛することができない
  • running away from responcibility:責任逃れ


この授業を受けながら、項目が後半へ進むほどリアルに責任逃れの退路を断たれた感じがしてドキドキしたのを覚えています。