まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

舌を楽しませるために食べているのではない。生きるために食べている

これはかなりのインパクトで、今でもよく思い出す先生の言葉です。

舌を楽しませるために食べているのではない。生きるために食べている。

寮ではブランチと夕食の時間がありましたが、夕食中は無言。おしゃべりは禁止でした。

 

日本で日常に戻って数年が過ぎ、えいやっと決めるだけのことを先送りしようとするときに、なんとなくおせべいに手を出す。そんな自分にハッとしながら思い出すのはこの言葉。わたしは歯を伝う頭蓋骨の振動も楽しませるのが好きなので、ついつい堅焼きのおせんべいを買ってしまいます。買う瞬間も、それに支配されている。

いまはアーサナの練習にも同じことがいえると思っています。感覚を楽しませる瞬間に長く居させてくれない、順番が決まっていてひと呼吸ひと挙動で進んでいくヴィンヤサ・ヨーガのシステムはうまくできているなと思います。

 

 

▼同じ日の授業での、別のお話はこちら

マントラはバイブレーションで、捧げもの

授業の合間の雑談で、シャルマ先生がインド人にとってのマントラについて話してくれたことがありました。


マントラは詩そのものに意味があるというよりもバイブレーションで、捧げもの。シヴァが妻のパールヴァティに贈った、捧げものなんだとおっしゃっていました。
インドの修行の世界ではグルが弟子にマントラを与えたり、マントラには女の子が生まれたとき、男の子が生まれたときなど種類がたくさんあって、なんなら人を殺すマントラもあるくらいだ、と。(そのあとに「僕は知らないけれども」と添えつつ)


わたしのノートには、関西の人が言う「知らんけど」というようなニュアンスで先生が話されたことのメモがいくつか残っているのですが、こういうメモをきっかけに「インド人にとってのマントラは、日本人にとってはなにかな…」などとたまに考えたりします。

リラクゼーションとレイジーとレジャー

インドで受けていた哲学のクラスでは、 自分ひとりで自分の言葉で答えを探す空白の時間がたくさんありました。

ヨガニードラはrelaxationであって、lazyではない.
relaxation と lazy は、なにが違う?

 

ヨガニードラはrelaxationであって、leisureではない.
relaxation と leisure は、なにが違う?

 
これはヨガニードラについて教わった授業の中での先生からの問いかけ。
こんな問いかけから始まって2時間くらい続く問答式の授業のなかでの投球。当時のノートは3ヶ月で2冊にわたっていて、今でもよく開きます。


レイジーはリラクゼーションではないのだけど、これはありがちな間違った理解だと先生はお話されていました。リラクゼーションはひとりで自分のために使う時間だと。
そしてレジャーは疲労をもたらす、負担にもなるものをさすのだそうです。taxing という英語で説明されていました。

 

日本でカタカナ記載されるリラクゼーションはレイジーに寄っているけれど、どこにいてもレイジーになれない人がその時間を買っているのかもしれない。帰ってからしばらく街の中の「リラクゼーション」の文字列が気になって、そんなことを思いました。