まろやかインド哲学

専門性よりも親しみやすさを優先し、インド思想(インドの視点)をまろやかな日本語で分解演習します。座学クラスの演習共有のほか、サーンキヤとヨーガの教典についてコメントしながら綴ります。

頭の中のサーチエンジンと消化作用

ヨーガはエクササイズやスポーツとはちがうね、というアジェンダでの授業のメモの中にとても気になっている一行があります。
パフォーマンスを上げるためにヨガをすることもあるけれど、スポーツのひとつのカテゴリとしてのヨガとヨーガは別だよという説明のあとに副交感神経と交感神経の説明が続き、消化作用の話になったノートのなかの、先生のつぶやきのメモ書き。
消化作用はリラックスしているとき、副交感神経のほうが活発であるときに強くなる、そういうメカニズムの話をしているのだと思っていたのだけれど、メモ書きを読むとすんなりしっくりいかない部分があります。
消化といったら胃袋のことしかそれまでは考えていなかったのですが、 digestive work の説明として先生がこんなことをおっしゃいました。

 

 頭の中にサーチエンジンがあって、行為を探すんだ。

 

ここは意味がわかっていないまま帰って来てしまったのですが、このメモは「行為を探す」の部分をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかで解釈が分かれます。はじめはネガティブな意味で理解しようとしていました。ヨーガ・スートラの第二節(冒頭)に「ヨーガとは心のはたらきを止滅することである」とあるので、サーチエンジンの走りを止めることが是なのだと思っていました。
が、そうするとその前の話の展開とつじつまが合いません。


その後数年ヨガニードラの練習や自己観察を経て、いまはこんなふうに解釈するようになりました。
リラックスしているときも活動的なときも、頭の中ではサーチエンジンが働いているけれど、活動的なときは時間を無駄にしない「効率的な生き方」の材料を探 している。「とりあえずなにかする」に陥りがちなのも、活動的なとき。リラックスしているときは、「自分がどうしたいか」という目的や行為を探しています 。外部に向かうサーチ・エンジンと内部に向うサーチ・エンジンがある。
もうひとつ、別の視点でも解釈が可能です。頭の中のサーチエンジンのパフォーマンスがあがるという意味での消化作用。より適切な行為を探せるという解釈。わたしはいまはこちらの解釈を採用していません。


行為の目的があいまいなまま効率だけを追求すると、長く続かず全体のバランスを崩す原因にもなる。社会生活のなかでこのような結論に至る行為の振り返りが何度もあったので、いまは「リラックス(副交感神経優位)」の意味を捉えなおしています。
「リラックス=考えない」ではなく「リラックス=考えが内部へ向かう」というふうに。このほうが、この日の授業の流れ「パフォーマンスを上げるためにヨガをすることもあるけれど」という前段ともつじつまが合ってくる。
短期目標も大切だけど、中長期目標も大切。後者はリラックスした状態が導いてくれる。いまはこの日の先生の言葉をこのように解釈しています。

ヨーガな瞬間と、そうでない瞬間。三つの観点

インドで受けた哲学の授業時間は、先生がなんとなく話す「こういうことってありますよね。あなたはどう考えますか?」というよう投球から始まってディスカッションへと展開し「ではそろそろ今日の本題に入ろうかな」となったりして、あまり英語ができないわたしはすべてのメモが並列。え、いまの枕だったの? となる。
今から書く話も本題だったのか副題だったのかアイス・ブレイクだったのか助走だったのかわからないのですが、こんな投球で始まったディスカッションがありました。

スピリチュアルな人、そうでない人、という言いかたをする人がいますが
同じ人でも、パラメータがオンになったりオフになったりする。
ヨーガな瞬間と、そうでない瞬間。

 

わたしはもともと日本人同士の日常会話でさりげなく身近な人が使う「いい人」というフレーズを怖いと感じていたので、どんな説明がされるのだろうと前のめりになりました。(わたしは「いい人」という表現を「(わたしにとって都合の)いい人」という意味だとすると、するととても怖い表現だと感じていたのです。親が子どもに「いい子」というのとあまり変わらない言葉を社会人同士でやりとりしていることに疑問を持っていました)


先生は「ヨーガな瞬間と、そうでない瞬間」を観るポイントについて教えてくれました。
セルフ・チェックをするときに、これらの三つの観点で観る。

 

  • 思考はどうか
  • 感じかたはどうか
  • 行為はどうか


授業は英語で、もとは thinking,attitude,behavior.


一般的にヨガの広告やイメージ訴求で使われる「ヨガ的」なものは、あくまで他者と共有する共同幻想ありきの「ヨガ的」。その場の状況やモード、流行とともに変化していくヨガです。
それとは別に、日常には自分の信条のようにヨーガがある。自分のパラメータがこの三つの観点においてヨーガ優勢になっているか、そうでないものが優勢か。それぞれが、なん%ヨーガ的? 
わたしはノートのこのページを開くたびに、「そうか、こんなふうに観ればいいのか」と思えて心が安定に向います。思考ひとつをとっても「"こんなことを思うわたしはヨガ的じゃない" と思っているわたしがヨガ的じゃない」という観かたになります。ヨガは厳しくもありやさしいものであるなと思うのは、こんなときです。

舌を楽しませるために食べているのではない。生きるために食べている

これはかなりのインパクトで、今でもよく思い出す先生の言葉です。

舌を楽しませるために食べているのではない。生きるために食べている。

寮ではブランチと夕食の時間がありましたが、夕食中は無言。おしゃべりは禁止でした。

 

日本で日常に戻って数年が過ぎ、えいやっと決めるだけのことを先送りしようとするときに、なんとなくおせべいに手を出す。そんな自分にハッとしながら思い出すのはこの言葉。わたしは歯を伝う頭蓋骨の振動も楽しませるのが好きなので、ついつい堅焼きのおせんべいを買ってしまいます。買う瞬間も、それに支配されている。

いまはアーサナの練習にも同じことがいえると思っています。感覚を楽しませる瞬間に長く居させてくれない、順番が決まっていてひと呼吸ひと挙動で進んでいくヴィンヤサ・ヨーガのシステムはうまくできているなと思います。

 

 

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